【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神の子となる資格」  ヨハネによる福音書1章9~13節



ヨハネによる福音書1章9~13節

  1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。



Ⅰ.「まことの光」と「闇」
 ヨハネは、神の御子は言であり、光であることを語ります。抽象的ですが、主なる神さまを適切に表現する言葉です。通常、光が照らされると闇は消えます。しかし、暗闇は光を理解しません(5)。暗闇が光を拒絶し、跳ね返したと言ってもよいでしょう。ちょうど私たちは、太陽が昇れば朝になったことを理解します。しかし、厚い雲がかかっていると、太陽が昇っても暗く、空はどよんでいます。罪はそのように光を覆い隠すのです。
 ヨハネは「まことの光」と語ります(9)。「まこと」の反対は「偽」です。つまり主なる神である「まことの光」が照らされているにも関わらず、同時に人によって、神に似せて作られた光が人々を照らしているのです。偶像という光です。人々は偶像に惹かれて、信じます。人々はそれがあたかも真実の救いであるかのような錯覚を持つのです。人々は本物の光を知ろうとしません。井の中の蛙です。また、お金やブランド品も偶像となります。権力や地位もです。これらはこの世において自らを満たすものです。まことの光は、まことの命である永遠の命を示しますが、この世の物品や楽しみは、一時的です。そして物質的な反映はまさしく偶像と化します。しかし人は、そうしたちょっとした喜びに一喜一憂し、本当の光を追い求めません。本当は、真っ暗な中の薄明かりの中にいるけれども、光の中にいるような錯覚を持つのです。そして、人々にまことの光が輝き、まことの言が語られても、興味を示さないのです。だからこそ私たちは、①私たち自身が暗闇の中にいることを知ること、②まことに光り輝く光を見つけ、偽物の光に騙されないことが必要です。

Ⅱ.救いを必要としている私たち
 まことの光である神に対して、この世は暗闇です。それはなぜか、改めて考えてみます。
 最初の人は、神によって創造され、神にかたどり、神に似せて造られます(創1:26)。それは、神の子として神の命に生きる人でした。続けて主は命の契約を結びます(2:16-17)。しかし、最初にエバとアダムが神さまの御前で罪を犯し、彼らと彼らから生まれるすべての人が死に支配され、この世が暗闇に閉ざされることとなります(3章)。
 そのため、私たち人間は、生まれながらにして、罪の性質、その刑罰としての死を受け継いているのです。性悪説です。性善説や、中立な立場に生まれ、善いことも・悪いことも出来るとする中間の説ではありません。
 ですからヨハネは、神の子となる資格が与えられた人々は、「血によってではない」(13)と語ります。つまり私たちは皆、アダムとエバの罪を受け継いで生まれてくるのですが、神さまによって救われる時には、このアダムとエバの罪から切り離される必要があるのです。ここの解釈をイスラエル民族との関係で考える神学者もいますが、ヨハネは言の永遠性から語り始めており、ここでもアダムとの関係、原罪に関して語られていると解釈した方が、文脈はすっきりします。
 ヨハネは続けて、神の子となる資格は「肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもない」と語ります。「肉の欲」と「人の欲」は同じことを指しているかと思います。つまり、私たちは生まれながらにして罪をもって生まれてくるのですが、日々の生活でも私たちは神さまの御前に罪を犯すのです。神さまの御前で聖書が語る罪は、行いによる罪だけではなく、口から発せられる言葉、心の中に思うことも忘れてはなりません(小教理82)。そのいずれもが、神さまの御前では死に値する罪です。

Ⅲ.まことの光によって生きる
 しかし神さまを信じると、神の子となる資格が与えられ、神さまによる救いに入れられます。それは驚くべきことです。神さまの全てを相続することが出来るのです。生まれながらの罪からも、日々神さまの御前に犯してしまう罪からも解放させられるのです。
 しかし人はクリスチャンになっても罪を犯します。人も傷つけてしまいます。
 しかし神さまを信じ神の子となると、神によって生まれるのです。それは私たちが神さまの養子となることです。つまり肉的な罪の子として生まれてきた者が、父なる神さまを父とする神の子となるのです。このことは同時に、私たちは神の御子キリストに繋がることを意味します。キリストは人となり、地上の生涯を送られますが、言を語り、光を世に照らしていただけではありません。同時に、ユダヤ人の手で十字架に架けられ、死を遂げられました。キリストは神の御子であり、罪のないお方です。そのお方が罪の裁きとしての死を遂げられたのです。それは神を信じる私たちのためです。キリストを信じる私たちの罪はキリストの十字架の死によって償われ、私たちの贖いとなって下さったのです。
 だからこそ、私たちは、救い主イエス・キリストを信じた時、罪の故の死から解き放たれ、まことの光に照らされ、まことの命を得ることが出来るのです。無限・不変・永遠の霊である神によって、私たち人間は、神のかたどり、神に似せて作られた者として、神によって与えられる命に生きることが何よりの祝福です。

                                              (2009.1.25)


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