【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神の恵みに生きる」  ヨハネによる福音書1章14~16節



ヨハネによる福音書1章14~16節

  1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。


Ⅰ.肉を取られた言
 ヨハネは、最初に「初めに言があった。言は神であった。」と語り、続けて「言葉は世に来た」と語ります。そして、今日のテキストでは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語ります。これは、マリアによる処女降誕のことです。しかしヨハネは、マリアの名も、聖霊によって神の特別な計らいによって身籠もったことも記しません。ヨハネにとって重要であったことは、イエス・キリストがどのようにして人となられたかではなく、言であり光である神が人となられた事実です。そして、人として宿られたキリストが、真の人であると証しされることです。しかし、キリストが神であると共に人である、二性一人格のお方であることを受け入れることが出来ない人々が、当時もいたのです。
 ヨハネが語る「わたしたち」とは、著者である使徒ヨハネを初めとする12使徒とその周辺にいた主イエスの弟子たちのことです。彼らは人となられた御子の証人であり、その一人であるゼベタイの子ヨハネが、福音書として証ししています。しかし私たちは、今この御言葉を聞く私たちの前にキリストは宿られたと読み取ることが出来ます。つまり、言であり光である神の御子が、世に下り、人となられた事実に対して、私たちは単なる立会人や見物者・傍観者ではなく、証人・当事者となることが求められているのです。
 確かに私たちは直接、人となられたキリストを見ることは出来ません。しかしヨハネはトマスを前にした復活のイエスの言葉として語ります。20:29「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」つまり、人となられたキリストを直接見たから、直接聞いたから、証人となることが出来るのではなく、主が御言葉によってお語りになられていることを聞き、キリストを信じ、語られた御言葉を受け入れ、行われた奇跡の御業を受け入れる者は、御子が人となられたことの証人となることが出来るのです。
 しかし、言である神が肉体を取り、人となられたことは、多くの人々にとっては躓きとなります。それは、旧約聖書によって語られている主なる神さまを信じ、約束のメシアを待ち望んでいるユダヤ人であっても、受け入れることが出来ないことです。彼らはイエスをメシアとして受け入れることが出来ず、「メシア」と名乗る不届き者として、神に対する冒涜罪を適用して十字架に架けたのです。
 また新約の時代となり、イエスの神性を受け入れて信じても、イエスの人性を否定する人々がいました。仮現論と言います。彼らは、体をもったイエスを受け入れることが出来ないため、人間が目にしたイエスは幻の如き存在であり、イエスは終始、霊的な存在であり、肉体をもつことはないと主張します。仮現論は、しばしばキリスト教グノーシス主義と結びつけられます。グノーシス主義では、「物質・肉体的なもの」と「霊的なもの」とを対立的に考え、前者は悪、後者は善と考えます。そのため肉と霊は相容れない存在であると考えます。そのためグノーシス主義においては、「イエスが神であるならば、神が劣悪な肉体をまとうはずがない」という教説が語られていたのです。
 ヨハネが福音書を記した頃には、すでにそうした考えを持つ人々がいたのであり、ヨハネはそうしたことを意識しつつ語っているのです(参照:コロサイ1:21-22)。
 一方、「言は肉となった」と語る時、言が言であることを止めて、神が神であることを止めて、肉を取ったと解釈することもあります。神である方が同時に人となられたことを受け入れることが出来ないのです。しかしここで語られていることは、言は言のまま、神は神のまま、神は「肉の中に入った」のです。「受肉」です。つまりこの時、神である御子に肉が合成されたり、結びついたものでもありません。また半々にしたものを合わせたというのでもありません。この様に考える時、肉を取られた御子には栄光はなくなります。半分の神、半分の言には、栄光はありません。全き神が全きままで全き人になられたのです。まさしく「真の神にして真の人」である二性一人格を取られたのです。

Ⅱ.「栄光を見た!」 キリストの証言
 またヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」と語ります。言であり光である神が人となられたことを受け入れることは、同時に神としての栄光を受け入れることでもあります。それを語るのが洗礼者ヨハネの証しです(6~7節)。ヨハネは「神から遣わされた一人の人」です。神御自身が人となられたイエス・キリストは、真の光、真の神であると証しします。これは重要な証言です。そして15節において洗礼者ヨハネは、「『わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と語ります。そして27節では、その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もないとまで語ります。当時、洗礼者ヨハネは人々から注目されていた預言者です。そして、ヨハネがメシアではないかとさえ言われていたのです。その洗礼者ヨハネをもってしても、わたしはその履き物のひもを解く資格もないとまで語る所に、御子の栄光が表れています。
 また、主イエス・キリストこそが、真の神にして真の人であり、栄光の満ちた方であることを証しするのは、何よりも主イエスの弟子たち12使徒です。彼らはイエス・キリストによって召され、直接、主イエスの御言葉を聞き、病人の癒しや超自然の奇跡が示され、何よりも主イエス御自身の死から復活の証人です。このことは、主イエスが復活の後、昇天された時、イスカリオテのユダに代わり、使徒を補充する時に語ったペトロの言葉によっても裏付けられます(使徒1:21-22)。つまり、イエス・キリストの事実をずっと見て来たことが大事なのです。ヨハネも19:35で同様のことを語ります。つまり使徒は、キリストによって直接召され、直接遣わされた、人となられたキリストの証人となったのです。

Ⅲ.キリストの恵みに生きる
 一方、使徒ヨハネは16節で「わたしたちは皆」と語ります。この「皆」とは、主イエス・キリストの直接の証人である12使徒や弟子たちの皆というよりも、神によって召し集められたキリスト者全員の意味が込められています。ウェストミンスター信仰告白第12章 「子とすることについて」では次のように告白します。「義とされた者たちすべてを、神は、その独り子イエス・キリストにおいて、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。これによって彼らは、神の子たちの数に入れられて、神の子たちの自由と特権を享受し、・・・」と語ります。
 つまり、真の言であり真の光である御子が人となられたことを証しすることが出来るのは、直接的には洗礼者ヨハネであり、12使徒を初めとする弟子たちです。彼らは直接的に、主イエスの栄光を、そして恵みと真理に満ちたお方であることの証人です。
 しかし、彼らの証しにより、今、この御言葉を聞く私たちもまた、真の言であり真の光である御子が人となられたことが示されたのです。御言葉により、キリストの栄光と、恵みと真理に満ちたお方であることを受け入れることが出来るのであり、この方の満ちあふれる豊かさの中から、救われ、永遠の生命に与る恵みの上に更なる恵みを受け取ることが出来る者とされているのです。私たちは、直接、主イエス・キリストの見たり、御言葉を聞くことは出来ません。しかし、御言葉により、真理が示され、恵みに満たされていることに感謝しつつ、同時に、主の証し人としての歩みを続けていきたいものです。




                                              (2009.2.1)


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