【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「仲保者キリスト」  ヨハネによる福音書1章17~18節



ヨハネによる福音書1章17~18節

  1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。



序.クリスチャンのイメージと実際のクリスチャン
 神さまのことを知らない人たちのクリスチャン像とはどのようなものでしょうか?
今は変わってきているかも知れませんが、以前は「清く、正しい」と言ったイメージがある程度あったかと思います。そこには、清く正しい人でなければクリスチャンになることは出来ないとの誤った認識もあったかと思います。
 私たちの教会でも礼拝毎に十戒を朗読し、神さまが求めておられる戒めとは何であるかを確認し努めています。しかし私たちは忘れてはなりません。私たちは清く正しいからクリスチャンになれたのではなく、私たちは十戒を唱えつつも、行い・言葉・心の中において、主の戒めを守ることの出来ない罪人です。だから神さまによる救いが必要なのです。

Ⅰ.律法と福音の関係
 ここで問題となるのが、律法と福音、行いと信仰の関係です。この問題は、教会の中でも古くから議論されてきました。どういうことかを簡単に言いますと、神の戒めを守ることにより救いが与えられるのか、神さまの救いが与えられその結果神さまに従う戒めが伴うのか、との違いです。このことは、今日の御言葉で律法と福音の関係を理解することにより、すっきりとすることが出来ると思います。
 主イエスの時代のユダヤ人たちは、約束の救い主メシアを待望していたわけですが、同時に彼らはモーセの時代に与えられた律法を大切にしていました。モーセに与えられた主の戒めは、十戒を中心に主にモーセ五書に記されています。ユダヤ人たちは、この戒めに目が行っていたのです。「~ねば、処罰される」ことが中心です。そのため、彼らは律法を全て守ることにより、救われるとの信仰に立っていくのです。
 しかし、この聖書の解釈は誤りです。十戒には前文があります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」主がモーセに十戒をお与えになったのはシナイ山でした。しかし主はモーセに十戒をお与えになるに先立ち、エジプトの奴隷として重労働が課せられていたイスラエルの民に、主は指導者モーセを立て、エジプト王ファラオから救い出して下さったのです。それは主御自身が奇跡をお示しになり、イスラエルの民は主の御力による救いであることを知ったのです。つまり、主がイスラエルの民に律法を与えられたのは、主が救い主であり、一方的な恵みによりイスラエルを救って下さった後です。しかしイスラエルはその間も後も罪を繰り返します。

Ⅱ.律法の三用法
 ですから律法が救いのために必要であったことは否定されなければなりません。そして律法には3つの用法があります。
 最初の用法は、善悪の規準です。神さまを信じていない人たちも、この律法を見ることにより、善悪の規準を知り、罪の抑制を行います。また、イスラエル人が律法を守れば救われる(参照:金持ちの青年、マタイ19:16~22)と解釈したのも、この用法からです。
 しかし私たちはこの戒めを、聖・義・真実である主なる神さまの規準で判断しなければなりません。主なる神さまは、私たちの全てを知っておられます。つまり、私たちの行いばかりか、口から発せられる言葉、心の中で思うこと全てです。そうすれば、主の御前に立たされた私たちは、律法により自分は罪人であることが示されるのです。これが律法の第二の用法です。このことを受け入れると、救われる為には、自らの罪を悔い改め、主なる神さまを理解し、神さまによる救いを求めるしか道がないことが示されていくのです。
 つまり信仰とは、律法に従ったから、善き行いを行ったから救われるのではありません。私たちは主の御前に罪人であり、どうしようもない人間だけれども、神さまは、イスラエルをエジプトから救い出して下さったように、私たちも救って下さっているのです。
 そして信仰が与えられた者は、聖・義・真実の神さまに従う指針として、律法を用いるのです。これがクリスチャンの善き業へと繋がるのです。善き業は、神さまによって救われたことへの感謝の表れ、喜びのしるしです。これが律法の三番目の用法です。

Ⅲ.イエス・キリストによる恵みと真理
 ヨハネは続けて「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と語ります。「恵み」と「真理」はキーワードです(参照:14節)。
 単に「恵み」と言っても抽象的な表現ですが、イエス・キリストによって現れた恵みと言えば、救いの恵みであり、永遠の生命の恵みです。イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態にあった時、主の一方的な恵みにより救われ、奴隷から解放されました。そして私たちも、主の御前に立つ時、罪人であり、罪の刑罰としての死を避けて通ることの出来ないものでした。しかし主の一方的な恵みにより、主を信じる私たちは、キリストの十字架による罪の赦しが与えられ、神の救いに入れられるのです。つまり、律法が与えられているからこそ、私たちは自らの罪を知り、神の救いの恵みを受け入れることが出来るのです。
 一方「真理」は、聖・義・真実である神の内にあります。それがイエス・キリストによって現されたのです。イエス・キリストは神そのものでありますから、地上の生涯、真理を貫かれ、私たち普通の人間のように罪を犯すことはありません。それは行いばかりか、言葉・心の中においても同様です。つまりイエス・キリストがこの世に来られることにより、またイエス・キリストの御業が聖書によって記されることにより、私たちは神の真理がどのようなものであるかを知ることが出来たのです。そして、キリストによって神の真理を知った私たちは、キリストに倣い、神の義・聖・真理を行う者へとされるのです。
 つまり、キリスト者として神に服従する時、私たちは主の律法により自らの罪を知り、悔い改めると共に、律法に従い、神の真理を行う者へとされるのです。こうしたキリスト者としての歩みが、結果として、キリストを証しする伝道へと繋がるのです。

Ⅳ.仲保者キリスト
 ところでヨハネは18節で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と語ります。私たちは今まで「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」との御言葉から聞いてきました。ウェストミンスター小教理問答においても、神には三つの位格があることを、私たちは今日、告白しましたが、イエス・キリストは、神の第二位格、子なる神、御子、神の独り子です。
 私たちは、御子イエス・キリストが示されたからこそ、真の神を知り、真の救いを知り、永遠の生命を知ることが出来たのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストのことを「仲保者」、新共同訳聖書では「仲介者」と呼ぶのです。イエス・キリスト以外に、私たちが救い主である主なる神さまに出会う方法はありません。そして、私たちは、イエス・キリストを知り、イエス・キリストの御業に出会うからこそ、真の神を知り、救いを受け入れたのです。そして、イエス・キリストこそが、私たちに真の救いをもたらして下さったのです。私たちが本来担わなければならない罪の刑罰を、キリスト御自身が十字架に担うことによってです。
 この後、すでに信仰を告白した者たちは主の晩餐に与ります。まだ信仰を告白していない方々は、聖餐式におけるパンと杯の配餐に与ることは出来ません。しかし皆さまが真に神の救いを受け入れて信じて、この交わりに加えられる日が来ることを願ってやみません。そして主の晩餐に共に招かれていることを覚えつつ、聖餐式を見ていただきたいものです。
 私たちは、聖餐式のパンを食す時、十字架に架けられたキリストの割かれた体を想起します。そして杯につがれたワインは、十字架で流されたキリストの血を想起します。私たちを罪の死から救い出し、永遠の生命へと導いて下さった仲保者が、十字架に架けられ死を遂げられたのです。これは本来、私たちが負わなければならない、私たち自身の罪の償いを、キリスト御自身が担って下さったのです。
 神の御子イエス・キリストがこの世にお生まれ下さり、私たちを救いに導いて下さいました。そして、キリスト御自身が、私たちが救われるために十字架における苦しみと死を成し遂げて下さったのです。主による救いに、感謝と喜びを持って、主がお語り下さる律法に従った歩みを、歩み続けていきたいものです。


                                              (2009.2.8)


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