【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「すべてをご存じである主」  ヨハネによる福音書4章16~18節



ヨハネによる福音書4章16~18節

  4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」



序.
 主イエスは、サマリアのシカルに立ち寄り、喉の渇きを癒すために女に水を求めます。しかし同時に、主イエスは命に渇いているのは、あなたであるとご指摘になります。そして女に命の渇きを癒すためにキリストと出会うこと、キリストの御前に立つことを求められます。そして、私たちもまた、キリストの御前に立つことが求められています。

Ⅰ.女を救うために近づかれる主
 女は人目を避けて一人水を汲みに来ていました。かつ、自分の前で水を求めていたのはユダヤ人です。自分には関係ないと思っていました。しかし、主御自身が彼女に感心を持って下さり、彼女の前に立って下さったのです。そして御自身に感心を引き寄せるのです。主が求められたのは、ユダヤ人から捨てられた民であるサマリア人の中にあって、さらに人々から遮断された彼女を救うことでした。そのために、主は御自身が何者であるかを、彼女に対する鋭い問いかけによって語られます(16)。
 家族のことは彼女にとっては一番隠しておきたかったことです。内縁関係にあり、人々から非難されていたことでしょう。ユダヤ人社会であれば、石打ちの刑に処せられるべき行為です。彼女自身、罪意識があり、人々の交わりに入ることが出来なかったのです。そのため、主イエスの問いかけに女は動揺したことでありましょう。

Ⅱ.女の罪をあばきたがる人々
 しかし主イエスはさらに、彼女の隠しておきたかった事実を明らかにされます(18)。こうした事が明らかになれば、人々はゴシップを追いかけます。現代であればワイドショーの格好のネタです。現在の同居人とは内縁関係にあり、過去の5人とは結婚をしていたのです。5人とは死別したのかも知れませんが、5人続けてではなかったはずであり、離婚も繰り返したことでしょう。彼女の奔放さが原因であったと言わなければなりません。この5人の夫とは、罪人を指し示す5種族の異邦人の比喩として語られているということも長年言われてきています(参照:列王記下17:24)。
 いずれに解釈しても構わないのですが、むしろ私たちが注目しなければならないのは、彼女が何者であるかを言い当てた主に目を向けることです。

Ⅲ.全知全能の主
 彼女にとっては驚くべき言葉が主イエスから返ってきたのです。彼女の過去と現在の生活、その表も裏もすべてさらけ出されてしまったのです。
 彼女の前に立っておられる主イエス・キリストは、彼女のすべてをご存じであります。主なる神さまは全知全能です。だからこそ、私たちはいつも主の御前にあり、私たちは主の御前に何一つ隠すことは出来ないのです。私たちにとっては、他人に隠したい行い・言葉・心の中も、主は全てご存じです。私たちはこのことを、肝に銘じなければなりません。
 それと同時に、主は、彼女の一番隠しておきたい罪の部分を明らかにされます。もちろん、主が彼女のすべての罪を明らかにされるのは、人々に見せびらかせるためではありません。主が女に会われたのは一対一です。先週の御言葉において、まさに私たちは主イエス・キリストの御前に一人で立たなければならないことを語ってきたのですが、この時、主は私たちの隠しておきたい過去の罪や、人を傷つけてきた弱さを明らかにされるのです。

Ⅳ.主の御前に立つ時
 それは罪の刑罰は死であり、一人では決して生きることも苦しみからも逃れることが出来ないことが示されるためです。つまり、私たちがいくら主イエス・キリストの御前に立ったとしても、今までの自分の生き方を正当化し、自らの富・権力・功績を誇っている状態では、救い主を受け入れることが出来ないからです。だからこそ、私たちは主イエス・キリストの御前に立った時、自らのありのままの姿を主に明らかにしなければなりません。そこに悔い改めがなければ、真の救いを求める心は生じてこないのです。
 しかし、主が主の御前に私たちの罪を明らかにしたのは、裁くためではありません。主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私があたえる水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14)とお語り下さいました。つまり主が私たちの前にお立ち下さるのは、裁くためではなく、罪を悔い改めた者の罪を赦し、生かすためです。本当ならば、私たち自身が自らの罪の償いを行わなければ、永遠の命を得ることなど出来ません。しかし命に渇いた私たちに代わって、私たちの罪をキリストが担って下さったのです。それが十字架です。だからこそ、私たちが命に渇いていたにも関わらず、それを担ったキリストが、十字架上で死を遂げられる時、「渇いた」と語られたのです。そして私たち自身は、キリストにある命の泉により、渇きを満たし、生きる命が与えられているのです。これが神の愛、キリストの愛です。
 だからこそ、私たちは罪が暴かれることに恐れつつキリストの御前に立つ必要はありません。私たちがキリストの御前に立つ時、隠されていた全ての罪が指摘されますが、同時に「この罪はキリストの十字架によって償われ、あなたの罪は赦された」と宣言して下さるのです。そして義と認められ、神の子としてのすべての特権が与えられているのです。
 だからこそ、私たちはキリストの御前に一人で立つことが求められるのです。生きて働いておられる主なる神さまがここにおられ、そして私たちの全てをご存じなのです。
 私たちは、主の御前に恐怖ではなく畏れ敬いつつ立つことが求められています。この時、私たちはキリストから永遠の命に至る水が与えられ、真の喜びが与えられるのです。

                                              (2009.5.17)


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