【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「霊と真理をもって礼拝する」  ヨハネによる福音書4章23~26節



ヨハネによる福音書4章23~26節

  4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」



序.
 主イエスは、神さまを礼拝する場所が重要なのではなく、誰を礼拝するのかが重要なのであり、救い主イエス・キリストこそが礼拝の対象者であることを語りました。そして「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」のです。

Ⅰ.まことの礼拝から遠ざけるもの
 私たちは、今神さまに礼拝を献げています。しかし、私たちは今、本当に自分自身が神さまを礼拝するに相応しい者となっているか吟味しなければなりません。つまり、だれでも礼拝の時間に教会に来ていれば神さまを礼拝していることになるかといえば、そうではありません。つまり、まことの礼拝をする者でなければ、霊と真理をもって父を礼拝することなど出来ないのです。では、霊と真理をもって礼拝できないとは、どういうことか? 一つ目が偶像崇拝で、二つ目が儀式礼拝です。
 神は霊であられます(参照:小教理4)。しかし人は、神さまを信じようとする時、何か目に見えるものにすがりたいのです。それが偶像となるのです。例えば、出エジプトの時、イスラエルの民が作った金の子牛がそうです(出エ32章)。主はモーセを立て、多くの奇跡を行いました。イスラエルの民はそれらをとおして、主の存在が示されていたのです。しかしモーセがシナイ山に登って不在となるや否や、モーセに代わる神を求め金の子牛を求めたのです。モーセがいなくなったことで、何かにすがるものを求めたのです。
 二つ目は儀式礼拝です。礼拝はいつの時代でも霊的であり、神との交わりが霊的に祈りによって行われます。旧約の時代、礼拝は祈りつつ犠牲が行われました。イスラエルの民が、生きて働く主との交わりにある時、犠牲はやがて来られるメシアによる贖いに結びついていることを確認したのです。しかし、生きて働く主との交わりが希薄になると、祈りがないがしろになり、犠牲の行為が礼拝の目的となったのです。そして自分たちが犠牲を献げたという行為が重要となったのです(参照:サムエル上15:22-23、イザヤ1:11)。それが儀式を中心にする礼拝となっていったのです。
 なぜ、このようなことが起こるのか? それは、私たちが一人で神さまの御前に立ち、自らの姿を顧みていないからです。私たちは神さまの御前に立ち、自らの姿が知れば、自らの罪の大きさ故に立っていられないはずです。死刑判決が出ているのですから。私たちの前に立っておられる主は、それだけの力を持っておられる方です。使徒教会の時代、土地の代金をだまし取ったアナニアとサフィラ(使徒5章)は、主の裁きにより即座に死に絶えました。生きて働かれる主への恐れ(恐怖)があれば、なおもこの罪を赦して下さった主や、私たちの罪の贖いのために十字架にお架かり下さったイエス・キリストに対して、感謝と畏れ敬う心、神さまに従い、神さまを礼拝する従順さが生じてくるのです。

Ⅱ.聖霊と共に働く御言葉の回復
 しかし、偶像崇拝・儀式礼拝は、新約の教会においても行われています。そして聖霊と共に働く御言葉を回復したのが宗教改革です。カトリック教会や東方教会(正教会)においては、マリア像、聖画像が飾られ、偶像礼拝化しています。だからこそ、改革派教会では、礼拝堂から偶像を撤去したのです。ろうそくや祭服すらも持ち込みません。
 また礼拝においては、心を高めるような賛美もしません。賛美は、私たちが興奮状態になり高まるためでもコンサートではないからです。賛美は、私たちの御前におられる主の栄光を讃え、誉め称えるのです。だからこそ、罪赦され、救われている感謝と喜びから生じてくる賛美が礼拝に相応しい賛美となるのです。
 またカトリック教会では、ミサに与ることが何よりも重要です。信者がキリストの体となったパンを頂くことにより、義が注入されると説明するからです。改革派教会でも聖餐式は重要視します。しかし目的化はしません。常に御言葉と共に聖餐式がもたれることが必要なのです。それは御言葉において、キリストの十字架による私たちの罪が償われ、罪の赦しが与えられたことを聞くのです。そして、主による愛と恵みに感謝を持ちつつ、聖餐において、キリストが十字架で割かれた体と流された血を想起しつつ、霊的にキリストの十字架に繋がるのです。だからこそ、聖餐式は、洗礼をうけた全ての会員ではなく、成人洗礼を受けるか、幼児洗礼を受け信仰告白した者だけが聖餐式に与るのです。
 だからこそ私たちは形を求める礼拝としてはならず、礼拝に出席することが目的化してはいけません。神さまは、私たちを礼拝に招いて下さっています。それは、主が礼拝全体を通して、特に御言葉の説教と聖礼典を通してお与え下さる救いに入れられることが求められます。そのために、私たちは御言葉に集中しなければなりません。

Ⅲ.まことの礼拝
 次に「まことの礼拝」と「霊と真理」は、本来同じ言葉です。真理は、本来、主なる神さまにのみあります。主は、聖、義、真実なお方です。一方、人は罪に汚れ、不義であり、真理を持っていません。だからこそ真理を持っていない人間が、霊と真理をもって父を礼拝しようとするならば、神の真理を恵みによって受け取るほかにないのです。そのために、私たちは真理に満ちておられる主を一方的に受け入れ、信じることが求められるのです。
 主の恵みに満たされて生じる「まこと」は、私たちの日々の生活に表されていきます。品性における真実さ、誠実さ、偽りなきこと、むなしくないこと、二心のないこと、見せ掛けのないこと、裏切らないことです。だからこそ、礼拝の時だけ「まこと」であろうとしても、それは見せかけに終わってしまうのです。「まこと」に主を礼拝しようとすれば、私たちの生活全体が変えられなければなりません。有神論的人生観世界観です(Ⅰコリント11:31)。そして主を礼拝するために、準備の時から変えられていくのです。
 私たちが主を求め、主に救いを要求するのではありません。神さまはこれ位赦して下さるだろうと、なぁなぁの関係になってはいけません。神の御前には、罪により死に処せられるべき私たちが、キリストの御業の故に罪が赦され、救われている救いがあるのです。だからこそ、救いの感謝と喜びをもって神を礼拝することが、今、私たちに求められているのです。自我に生きるのではなく、救い主である主の恵みに満たされ、私たちを生かして下さる主の御言葉に聞き従って、日々歩み続けていきたいものです。

                                              (2009.6.7)


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