【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「真の信仰を持った者」  ヨハネによる福音書4章25~30節



ヨハネによる福音書4章25~30節

  4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。




Ⅰ.弟子たちの態度
 主イエスはサマリアの女と話しをしていました。女自身が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9)と語ることから、当時ユダヤ人がサマリア人と話しすることはありませんでした。むしろ、出会うことを避け、同時に罪人として蔑んでいたのです。ですから、二人が会話していたことは驚きです。
 そうした状況の中、主イエスの弟子たちは帰ってきます(27)。ユダヤ人たちにとっては考えられない状況が目に入ります。普通ならば、「先生、なぜ、罪人であるサマリアの女と話しをしているのですか」と問いただすような問題です。しかし弟子たちは、先生である主イエスに何も尋ねることはせず、まったく意に介さなかったのです。つまり弟子たちは、主イエスに対しても、サマリアの女に対しても無関心だったのです。
 そもそも弟子たちは、主イエスによってどのようにして召されたのでしょうか。アンデレは兄弟シモン・ペトロに出会い、「わたしたちはメシア-『油注がれた者』という意味-に出会った」と語ります(1:41)。またナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えています(1:49)。その上で、カナの婚礼においては、水を上等なぶどう酒に変える奇跡を見たのです。つまり弟子たちにとって、先生であるイエスさまが、神の子メシアであることはすでに示されていたのです。
 しかし、弟子たちは無関心なのです。つまり弟子たちはイエスさまがメシアとして何かをされようとしていることに関心はなく興味も示さないのです。つまり弟子たちに取っての関心は、イエスさまが自分たちユダヤ人に何をもたらして下さるのかということのみだったのです。ここに弟子たちが主の大いなる御業の豊かさに入れられることなく、自己中心的な狭い幸せを求めている弟子たちの姿が露わになります。
 私たちに求められていることは、救い主イエス・キリストを礼拝し、キリストによってもたらされる救いと神の国の完成を追い求める事です。そうであるならば、主イエスがサマリアの女と出会われ、会話をしておられたのを目撃したならば、そのことをとおして、主イエスは何を目的にそのようなことをなされたのかに興味を示すことが、私たちに求められているのです。主が救いの完成に向け行動は、私たちの救いにも関係することです。

Ⅱ.サマリアの女に示されたメシア
 一方、主イエスに出会ったサマリアの女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(25)と語ります。これは「あなたこそがメシアですよね」と言った問いかけです。彼女はイエスが語る言葉ににより、この方こそ旧約聖書をとおして語られてきたメシアであることを受け入れたのです。主イエス御自身も「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と、女の問いかけに対して答え、彼女はメシアと出会ったのです。

Ⅲ.救いの喜び
 そしてサマリアの女は、霊と真理をもってイエス・キリストの父である神を礼拝する者へとされたのです。するとまず第一に、彼女はイエス・キリストがどの様なお方であるか知ろうとします。弟子たちのように無関心ではいられません。だからこそ、女はこの方が「キリストと呼ばれるメシア」かどうか確認したのです。
 第二に、真の救い主に出会うことは、喜びに満たされ、聖霊によって押し出されるように人に証しせざるを得ないものとされるのです。それはメシアにある永遠の命に至る水を手に入れたからです。彼女は今日一日の必要を満たす水を汲みに井戸に来ていました。彼女はそれを置いて喜びを伝えに行ったのです。しかも彼女は罪人として、人目を避けて暮らしていました。その彼女が、町に行き、人々に語り始めます。メシアによる救いが示される時、彼女から民族の違いや罪の有無などの障害はすべて取り除かれるのです。
 第三に、聖餐の共同体に入れられるのです。私たちはこの後、聖餐式に与ります。聖餐式に与るとは、十字架において割かれたキリストの体を、このパンにおいて覚え、十字架において流されたキリストの血を、このぶどう酒において覚えるためです。同時にこの聖餐に与る私たちは、天国における聖餐に招かれているのです。時代を超え、民族を超え、話す言葉を超え、キリストに繋がる民が、神の国、天国において一同集い、主を賛美し、礼拝することが出来るのです。その素晴らしさを覚えることが出来る時、私たちはキリストによる救いが与えられていることに感謝をもって受け入れることが出来るのです。


                                              (2009.6.14)


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