【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神を信じるとは」  ヨハネによる福音書4章39~42節



ヨハネによる福音書4章39~42節

  4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」



序.
 主イエスがサマリアを訪れ、女に「生きた水を与える」と語られたことから、異邦人であるサマリア人が神さまを信じることとなります。

Ⅰ.女の変化
 女は、主イエスから生きた水を得た途端に、本来の目的であり今日生きるために必要であった水がめをその場に置いたまま、町に出て行きます(28)。それ程、彼女にとって、主イエスと出会うということは衝撃の出来事であったのです。
 彼女は、罪の故に人びとから隠れて、一人、真昼に水を汲みに来ていました。つまり、自らの罪を背負い、人びとから罪人とされ、人びととの交わりを避け、人びとから隠れるように生活していました。その女が「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました。」(39:参照,29)と主を証しするのです。今までの彼女とは違い、恥じらいはありません。キリストを受け入れ神さまを信じる、永遠の命に至る水を得ることにより、人びとから隠れて暮らさなければならないような恥らしさがある生活だった人間が、罪が赦された者として、晴れ晴れとして人びとの前に出ることが出来る者となるのです。
 つまり彼女にとって命の水とは、罪の赦しそのものでした。彼女は自らの罪を受け入れ、悔い改めたのです。キリストによってその罪は贖われているため、彼女は人びとの前に行き、証しすることが出来るのです。

Ⅱ.人びとの変化
 ところでこの女の証言により、その町(サマリアのシカル)の多くの人々は、イエスを信じます。これこそ驚きであり、これが福音の力です。人々は、女の素性、つまり不品行な女であり、次から次へと別の男へと渡り歩いていることを知っていました(18)。だからこそ、彼女は今まで人びととの交わりの中に入ることが出来なかったのです。
 しかし、彼女が自らの罪を示され、罪を主の御前に悔い改め、信仰によって生きる者とされた時、彼女の口から発せられる福音に人々は耳を傾けたのです。つまり彼らが話しを聞いている女は、以前の女ではないことが、人々の目にも明らかになったのです。
 私たちは、この大垣の地で一人が神の民とされることがどれだけ時間がかかるかを知っています。しかし私たちは、有名人を呼ぶような伝道集会は行いません。クリスチャン有名人を呼べば、社会的に注目を集めるでしょう。多くの人たちに教会を知っていただくことは必要です。しかしそこで福音が聞き届けられなければ、その集会は無意味です。むしろ語る人が無名であっても、そこで語られる言葉により、神による救い、福音が語られ、人びとの心に留まることが必要です。名声は逆に、福音を伝えることを邪魔します。福音が語られ、人びとがその福音の言葉に耳を傾ける時、福音は人びとに届けられ、伝えられていきます。私たちの伝道とは、この福音の力によって行われていくのです。
 主は小さな種でも、良い種であれば、30倍、60倍、100倍の実りをもたらして下さいます。主イエスは、サマリアにおいて女一人に永遠の命に至る水について語られただけです。しかし、彼女を通じて、多くの人びとが福音を知ることとなったのです。だからこそ私たちは、主の御前、礼拝の場において語られる福音の力を信じて、伝道を行うのです。
 人びとは、女のすべてをご存じであられたイエスこそが主、メシアであるとして信じました。信じるとは、救い主イエス・キリストと出会うことです。サマリア人たちは、女の語るイエス・キリストを受け入れ、救い主イエス・キリストと出会ったのです。
 伝道は人の導きによって行われます。しかし、人を通じての信仰に留まり続けていてはなりません。神さまを信じ救われるには、あなた自身が救い主イエス・キリストと出会うことが求められるのです。サマリア人たちは、最初は女の証言によってキリストを知りますが、キリストこそが救い主であると、彼ら自身が御言葉によって確認し信じたのです。
 この時、もう福音を最初に語っていた女は関係ありません(42)。伝道とは、まさに罪赦された者が、感謝と喜びを人びとに伝えることによって行われるのですが、そのことによって人びとが救われたことを一緒に喜ぶことはあっても、自らの手柄にしてはならないのです。むしろ、そこから離れ、主の僕としての歩みを続けていけば良いのです。
 私たちは、今から聖餐式に与ります。聖餐によってパンとぶどう酒に与るのですが、この聖餐に与るということは、昨日まで、この交わりの外のあった人たちでも、キリストによる救いに入れられ、神の民として招き入れられた人たちならば、一緒に与ります。それが異邦人であろうが、罪人であろうが、民族・国籍が異なっていても、話している言葉が異なっても、性格・賜物が全く違っても、しかしキリストの十字架により罪が贖われ、罪赦され、義とされ、神の子とされた者であれば、皆、この聖餐に招かれているのです。この場に共に集っていない他の教会、他に居住している人たちも、神の国にあっては一緒に招かれるのです。キーワードは、福音を聞き、イエス・キリストの救いに導かれるということです。
 キリスト者は、自分自身が、永遠に生きる命の泉に満たされることにより、さらにまだこの場に招かれていない人に、ここがどれ程素晴らしい所であるかを、伝え、一緒に聖餐に与るものとなればよいのです。


                                              (2009.7.12)


COPYRIGHT(C) 2009 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る