【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「安息日の目的」  ヨハネによる福音書5章9b~18節



ヨハネによる福音書5章9b~18節

  5:9b その日は安息日であった。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。



序.
 主イエスは、ベトサダの池において、38年間病気で苦しんでいる人、つまり死を待つばかりの男の病気を癒されました。このことから、主は死ぬ者に命をお与え下さる救い主であることを示されました。

Ⅰ.「安息日」規定 労働の禁止
 しかしユダヤ人たちは「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(10)と語ることから、主イエスが行われた癒しの奇跡が、安息日論争へと発展していきます。ユダヤ人にとって、安息日は神が定めた完全な律法であり、人びとにも厳格にこの律法を守るように求めていました。彼ら自身が、主の律法に忠実にあろうとした信仰の態度を否定することは出来ません。むしろ見習うべきです。しかし、聖書の読み方を間違っていたのです。
 主が定められた律法は、十戒第四戒にまとめられています(参照:申命記5:12~15)。第四戒では、人びとが「安息」し、労働から解放されことが、主を聖別し、主を崇める行為であると語られています。そのため、ユダヤ人たちは、労働することとは何かを徹底的に確認し、禁止事項を作成していきました。
 しかし、この律法は禁止のみが語られているのではありません。律法を遵守する行為が形式的になってはなりません。律法には主の愛が込められています。人は、罪人となって以来、労働の苦しみを味わうようになりました。汗水垂らして労働しなければ、人は生きることが出来ません。しかし、主は、週の一日に安息を持ち、体を休める日を定めて下さったのです。現代でも、労働条件が厳しくなり、休むことすら出来ない人びとも、現在でも多くおられます。主イエスの時代は、なおさらです。労働に関する規制などはなく、さらに奴隷には人権もありません。しかし主は、全ての人、異邦人、奴隷、さらに家畜に至るまで、週の内の一日を休息することを求められました。労働からの解放は、労働の禁止ではなく、休息です。ここに平安、喜びが伴います。
 この男にとって38年間、安息日は何回あったでしょうか? 約2000回です。彼にとってこの2000回の安息日に、主の平安が訪れたでしょうか? むしろ罪人だから病気であることを人びとから指摘され、生きる希望を失わせる日となっていたことでしょう。主イエスが彼の病気を癒すことにより、彼は絶望から生きる希望が与えられたのです。休息は、心を安らぎへ、平安へ、希望へと導くのです。

Ⅱ.「安息日」規定 主の安息・・神の国の完成に向けて
 しかし、主が求めておられる「安息」とは、単に「休息」に留まりません。
 私たちは、主なる神さまがなぜ私たちに十戒という戒めを与えられたのかを考えなければなりません。皆さまは、毎週どの様な思いで十戒を朗読しておられるでしょうか? 神さまの厳しさを感じておられるでしょうか? 「~ねばならない」と語る言葉に、否定的な受け止めがあり、守らなければ刑罰を受けるような脅かしのようなニュアンスも感じられているでしょうか? しかし主イエスは、最も重要な掟として二つのことを語り、そしてそれがこの十戒においても支配しておられることを語っておられます。マタイ22:37-40「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」つまり十戒とは人びとに規制を行うことにより救いを獲得するよう求めておられるのではなく、主が私たちが生きるために必要な道具としてお与え下さっているのです。つまり、単に禁止事項が語られていると解釈するのではなく、この規定により①人びとの罪を抑制することが出来る、②自らの罪を示し、そして③神と人びとを愛するために用いることが出来るのです。
 また、この安息日規定が語られている出エジプト記20:8-11は、次のように語ります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」これは天地創造において主が行われた行為です(創世記2:2~3)。主の安息とは「祝福」と「聖別」です。神さまの内にあって私たちは祝福を得るのです。そして私たちは神の子として他の者たちから分けられるのです。神さまの内に生命があるのです。
 つまり、安息日を守る行為には、労働を休息する以上に、神の内に生きる、神の救いに生きることが意識されなければなりません。主イエスの十字架の後、キリスト教安息日として、主の日である日曜日に私たちは礼拝を守っています。私たちが、日曜日に教会に集い、礼拝を守ることは、まさに死に行く者から神の子として生きる者へと、日々の苦しみを送る者が神の祝福に満たされて生きる者にされていることが示されているからです。
 ちょうど、38年間寝たきりの男が、主イエスに出会い、体が癒され生きる者とされたのと同じように、私たちは安息日毎、つまり主の日毎に、主によって救われ生かされている希望を確認するのです。


                                              (2009.8.2.)


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