【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「信じる者は命を得る」  ヨハネによる福音書5章21~26節



ヨハネによる福音書5章21~26節

  5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。




序.
 主イエスは、死んだも同然の病人を癒し、生きる力をお与えになりました。

Ⅰ.命をお与え下さるキリスト
 ①「はっきり言っておく」
 主イエスは「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、あなたに命じます)」と語ります(19,24,25)。ヨハネ福音書で17回用いられていますが、主イエスが核心的な言葉を語る時に用いられています。今日のテキストでこれが繰り返されているということは、主イエスが語られる言葉が、非常に重要な言葉であることを物語っています。それが、主イエスの御言葉を聞き、主イエスと共に主イエスをお遣わしになった父なる神さまを信じることです。この時、私たちは、死から命へと移されるのです。
 ここで疑問と躓きが生じます。「死」から「命」? 私は今生きていると。しかし、主イエスは、キリストに出会う前のあなたは死んだ状態にあることを語ります。ちょうど、ベトサダの池に38年もの間、横たわり、死んだも同然の病人と同じです。やがて死に行く体を宿しているのであり、真には生きていないのです。全ては消え去るからです。
 では私たちが生きるとはどういうことか?私たちは自分の力で生まれ、生きているのではありません。人は主の天地創造によって命が与えられ、私たちも神さまによって今日の命が与えられているのです。つまり人は、神と共にあり、神さまによって「生きよ」と語られる時、本当の意味で生きることが出来るのです。
 主は私たちの命を明日にも取り除く力を有しております。私たちは一人の姉妹のことを覚えています。主は彼女に命を与え、病気の苦しみながらも、なおも命を与え、生きるように導いて下さっています。私たちは彼女と家族のことを覚えつつ、私たちに与えられている健康を主に感謝しなければなりません。
 しかし、私たちに与えられているこの肉の体は、時が経てば死にます。ここで主イエスが「死」から「命」を与えると語られる命とは、この肉の体のことではありません。霊の命です。人は最初の罪により、神の裁きを免れることが出来なくなり、生きる者から死ぬ者へとなったのです。そのため、肉に死に、そして最後に主の審判が下されるのです。キリストに出会う前の私たちは、皆、霊的に死んでいるのです。38年間寝たきりのあの病人と同じで、肉の命はあるのですが、実質的には希望はなく、絶望の中にあるのです。
 しかし主は、キリストに出会う私たちを「死」から「命」に移して下さいます。それは、この最後の審判において、「死」の宣告から免れ、主によって命が与えられることです。
 人がこのように「死」から「命」へと移されるために十字架に架かり、死んで下さったキリストに繋がることが、私たちには求められるのです。主イエス・キリストの御言葉に聞くことです。私たちが「命」へと移された時、私たちは、私たちに「命」を与えになる主なる神さまに絶対的に服従し、主がお語りになる御言葉に聞き、御言葉に従うのです。

Ⅱ.キリストの御声を聞く者は生きる!
 主イエスがこの世に来られるまで、ユダヤ人はメシア来臨を待っていました。しかし彼らはキリストがメシアであることを拒絶しました。異邦人とされていたサマリア人もメシアを待っていました。井戸に水を汲みに来ていた婦人は、主イエスと出会うことにより、生きる水が与えられ、神を礼拝する者となりました(4章)。
 つまり、信じる者は救われるのです。救われるためには、私たちの罪が償われ、罪の刑罰が支払われることが求められます。この罪の刑罰が、キリストの十字架によって成し遂げられたのです。この私たちの罪の償いのために、メシアが人として来られる必要があったのです。そしてキリストは来臨し、救済の御業を成し遂げて下さったのです。だからこそ、主イエスは「今やその時である」と語るのです。
 一方「その声を聞いた者は生きる」と主イエスが語られるのは、旧約から今の時代まで、全ての時代において生きる全ての人々のことです。アブラハムは、主の言葉を信じて、ハランを出発し約束の地カナンに行きました。75歳のアブラハムには子どもがいませんでしたが、主によって子どもが与えられ、星のように増えることを信じたのです。アブラハムへの主の約束は、出エジプトの時代に確認できるようになり、キリストの誕生によりすべての約束が成就したのです。アブラハムは自らの目では主の約束を見届けることが出来ないにも関わらず、主を信じ、主によって救われたのです。
 私たちは、今、主の御言葉を聞いています。主イエス御自身は、すでに十字架の御業を終え、神の国に座しておられます。私たちはキリストに直接出会うことは出来ません。しかし、私たちは御言葉(聖書)が説き明かされる時、キリストの御声を聞いているのです。キリストが天にあって生き続けているように、キリストがお語りになった御言葉も私たちの内に生き続けるのです。そして、キリストの言葉を聞き、受け入れ、信じる者は、死に行く者ではなく、もうキリストにあって生きている者とされているのです。だからこそ、私たちは、日々の生活がどれだけ苦しくても、病の中の闘病にあっても、またキリストを信じるが故に迫害にあっているとしても、人生を捨てたり、投げ出すことなく、キリストにあって命が与えられている希望に、生きることが出来るのです。

                                              (2009.8.30)


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