【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「最後の審判」  ヨハネによる福音書5章27~30節



ヨハネによる福音書5章27~30節

  5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」



序.
 主イエスは、御自身が神の子であり約束のメシアであることを人々に示すために、ベトサダの池において38年間寝たきりであった病人を癒されました。その奇跡の御業を通して、主イエスは、ユダヤの人々と、御子の権威について語ってきたのです。

Ⅰ.「人の子」なる主イエス
 この時主イエスは、父なる神さまに対して、自らを「子」であると繰り返し語ります。つまり主イエスは、父なる神と同等の子なる神であることをお語りになったのです。そして、27節において、主イエスは「子は人の子だからである」とお語りになります。「人の子」。私たちは、皆が人から生まれた人の子であると思っています。しかし聖書において「人の子」と語られる時、それは特別な意味を持ちます。旧約聖書の時代、イスラエルは、約束のメシアを待っていましたが、それが「人の子」であると預言されていたのです(ダニ7:13-14)。つまり「人の子」は終末の時代に現れることを、旧約のユダヤの民は信じていたのです。だからこそ、主イエスが来られた時にも、ユダヤ人は終末的な王としてのメシアを待ちわびていたのです。しかし、目の前にいるイエス・キリストは、雲に乗って来ることもなく、ドラマチックな存在ではありませんでした。主イエスがこの世にお生まれになったことを、私たちはクリスマスの日に喜び、盛大にお祝いいたしますが、主イエスがお生まれになった時、ほとんどの人々は見向きもされなかったのです。
 そのため主イエスは、旧約聖書において「人の子」と預言されていたメシアであることを示すために、奇跡を行い、御言葉によりそのことを証しされているのです。主イエスが語る言葉には力があります。主イエスは、旧約聖書に預言された言葉を破棄され、別の仕方でこの世に来られたのではありません。私たちは、聖書の全体において旧約の預言を確認しなければなりません。天地万物の最初から、旧約の歴史があり、イエス・キリストが来られ、そして新約の歴史を今、刻み続けているのです。そして終末が来ます。旧約聖書において預言されるということは、それ以降に成就するのであり、イエス・キリストの来臨によって成就したこともあれば、いまだ成就しておらず、主イエス・キリストの再臨、つまり最後の審判によって成就する出来事も、旧約聖書に記されているのです。
 ダニエル書において、「人の子」のような者が天の雲に乗りと語る時、私たちはキリストの再臨、最後の審判を確認しなければなりません。主イエス、十字架の死から復活を遂げられ、天に昇られる時、何を弟子たちに約束されたでしょうか。使徒言行録1:11において天に昇られた時、天使は語ります。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に昇られたイエスは、天にいかれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。これこそ、ダニエル書7章の預言です。私たちは旧約の預言とイエス・キリスト、そして終末の出来事を切り離して考えてはなりません。全てが一直線上に繋がっているのであり、私たちも、その直線上に立っているのです。

Ⅱ.終末の預言は成就する
 「裁きを行う権能を子にお与えになった」と、主イエスは自らの持っておられる神としての権威を示されます(27)。それは、時が来ると明らかになることであり、今の時点ではまだ明らかにされていません。旧約において預言されていたことが、御自身の手に委ねられ、終末の時に成就することを、主イエスは語られるのです。それこそが死者の復活と裁きです(28-29)。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニ12:2)。旧約の時代から、死者の復活が預言されてきており、復活により、永遠の生命が与えられることを、人々は信じていたのです。「今でも、そのようなことを信じるように求めるのか?」、「現実離れしている」と、人々は語るでしょう。人々は、現実、踏襲主義です。目にしていないことを恐れます。改革はしてもらいたいと思っていても、実際その手順が示されると、批判してしまうのです。
 しかし私たちは、主がお語りになった御言葉、主イエスがお語りになった御言葉により頼むべきです。旧約聖書で預言され、主イエスによって約束されたことは、必ず成就します。私たちは主なる神さまの救いの御業の中に入れられているのです。私たちは聖書を他人事として読んではなりません。天地創造から、旧約、キリストの御業、新約の歴史、そして終末とダイナミックな歴史が聖書によって展開されていきますが、その中に私たちも置かれているのです。

Ⅲ.最後の審判
 では、主イエスが語る言葉はどの様に理解すべきでしょうか。永遠の生命に入るために、主イエスが求めておられることが、二つ語られています。人の子の声を聞くことと(28)、善を行うことです(29)。「善を行う」とは、善き業であり、主イエスに倣うことであり、聖書が語ることに服従することです。これは功績主義ではありません。旧約聖書において預言され、キリストが現れ、信じる者すべてが罪赦され、救いを得るために、キリストは十字架の御業を成し遂げて下さいました。キリストの十字架の御業により、キリスト者が、復活の時、永遠の生命が与えられることは決定しているのです。だからこそ、救いが与えられた私たちは、すでに永遠の生命が約束されています。だからこそ、神に仕え、善き業を行うことは、救いの感謝から生じ、救い主であるキリストを模範にして生きるのです。もちろん、私たちはこの世の歩みの中にあって、罪赦されつつ、なおも罪の中に歩んでいます。だからこそ完全な善を行うことは出来ません。しかし、主は私たちが主に従おうとしている姿を喜んで下さるのです。
 一方、「神さま、私を救って下さい。しかし私は生活を変えることはしません」と語ることが出来るとすれば、主なる神さま、そして御子イエス・キリストの裁きを行う権能を理解していないからです。その結果は、主による裁きです。主なる神さまを信じることは、救い主である主に畏れをいだくことです。今の時代、主従関係にあることが嫌われます。しかし、それは自分を主にしているのであり、そこから自分勝手、無秩序が生じてくるのです。主が求めておられるのは、キリストを信じるキリスト者が、全ての被造物を治め、社会に秩序を回復させることです。


                                              (2009.9.6)


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