【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスを証しする方」  ヨハネによる福音書5章31~37節



ヨハネによる福音書5章31~37節

  5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。



序.
 「私が神だ」、「私がキリストの甦りである」と語る偽預言者・偽キリストは世界中にいます。私たちはそれを見破り、キリストの教会ではサタンが混入を防いできております。

Ⅰ.証しをする
 しかし実際に主イエスがこの世に来られた時も、人々は同じ反応をしたのです。ユダヤ人たちは、主イエスを旧約聖書で啓示されていたメシアであることを否定しました。つまり私たちも主イエスが再臨される時、真実の救い主であるかの吟味が迫られるのです。
 主イエスは、御自身が偽預言者ではなく、真の神の御子であることを証しされます。自分一人の証言は証拠として採用されません。客観的な第三者の証言・証拠が求められます。だからこそ主イエスも「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない」(31)と語るのです。
 また聖書は証人の重要さを語ります(第九戒、申19:15,18-19)。人の犯罪の有無が、証言によって定まるからこそ、偽証の刑罰は非常に重たくなるのです。

Ⅱ.主イエスを証しする洗礼者ヨハネ
 主イエスは、証人として、父なる神さまと、洗礼者ヨハネを挙げます。
 主イエスは先に洗礼者ヨハネに言及します。ヨハネについては、「彼は証しをするために来た。光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」(1:7)と語られていました。この「光」こそ、ここで主イエス御自身です。彼の証しは、なぜ信頼に値するのか。神である方が、人によって証しされなければならないのではありません。人間ヨハネとしての証しであれば必要ありません。「わたしは、人間による証しは受けない」(34)。ヨハネは、父なる神さまによって遣わされた預言者であり、単なる人間の言葉による証しではありません。ヨハネが父なる神さまから遣わされた神の預言者であるからこそ、ヨハネの証しは、真実なのです。

Ⅲ.父なる神さまによる証言
 しかし、主イエスは、ヨハネの証しだけを、御自身のメシアとしての証しに用いられることはなさいません。主イエスが遣わされた方、つまり父なる神御自身の証しについて、続く36・37節において語ります。つまり、主イエスが父なる神の御子であることを証しするのです。それは第一に主イエス御自身が行われている力ある御業そのものであり、第二は旧約聖書をとおして示された父なる神さまの証言です。
 それに続けて、37節では、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と語ります。「証しをしてくださる」と語る言葉は、実は完了形であり、「証しをしてくださった」と訳さなければならない言葉です。つまり、主イエスがここで語ろうとしていることは、旧約聖書に記された神の御言葉が、主イエス御自身を証ししているのだ、ということです。聖書によって証しされていることに関しては、38~40節、また45~47節ではモーセに関して語られている所に記されています。次回以降、改めて考えることに致しますので、今日は取り上げないことと致します。

 一方、最初に語られているのは、主イエス御自身の御業についてです。主イエスの御業については、すでに多く語られてきました。2章ではカナの婚礼において水を良いぶどう酒に変えられた奇跡、4章においてサマリアの女に対して、生きる水を与えられたこと、役人の息子を癒されたこと、5章に入りベトサダの池で38年病気で寝たきりの人を癒されたことなどです。どれ一つをとっても、主なる神さま、救い主でなければ行うことの出来ないしるしです。
 主イエスは、人々に示され、御自身の御業こそが、すでに父なる神さまによって遣わされた神の御子そのものであることを証しされていることをお語りになっているのです。
 主イエスの御業は、超自然現象として現在においてもテレビなどで騒がれているような事柄とは一線を画しています。超自然現象と呼ばれるすべてのものを否定することは致しません。しかしその多くは人々の注目を引くことが目的です。主なる神さまには不可能なことはなく、自然をも治め、自然を超えて働くことがお出来になるおかたであるからこそ、こうした超自然現象の中に主の御業が全くないとは言い切れません。しかしその多くは人々の興味を求めるものです。最初に語りました「私が神だ」と自称する偽預言者たちが、「私は奇跡を行うことが出来る」と語るのもこの範疇にあるのです。

 一方、主イエスの行われた奇跡の御業、それらが何を目的としてされているか、それに私たちは注目しなければなりません。主イエスの御業は、人々の注目を集めるため、人々に気に入られるために行われたのではありません。ベトサダにおいて38年もの間、寝たきりであった男を癒したことを考えてみてください。主イエスは、御自身が神であることを示すためだけに、癒しの奇跡を行われたのではありません。主イエスは、この男の苦しみを知っておられました。そしてそれを受け入れ、担い、いやしてくださったのです。ここに神の愛があります。
 主イエスは、「自分が神の御子だから受け入れなさい」と人々に迫ったのではないのです。日々の生活に苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たち、一人ひとりをご存じであり、その苦しみ、悲しみを担って下さるお方です。そしてそれぞれ持っている苦しみ、悲しみから解放し、神の内に生きる喜び、祝福をお与え下さるのです。
 その神の愛が、今、私たちに示されているのです。キリストの愛は、今、私たちに注がれています。日々の生活の苦しみを覚えていて下さいます。また死に行く恐怖を知っておられます。キリストは人々に受け入れられないことを知りながらも、神の御子としてこの世に来られたのは、まさに罪の故に死に行く私たちを捉え、罪を赦し、永遠の神の御国における祝福へとお導き下さるためでありました。
 主イエス・キリストが、真の神、真の救い主であることを証しされようとしている時、主の御業に神の愛が込められていることを忘れてはなりません。

結.
 私たちは、この後、聖餐式に与ります。聖餐式においては、いくつものことを覚えていただきたいのですが、やはりその中心は、キリストの十字架です。ここに集う私たち一人ひとりが、神から離れ、日々苦しみ、罪の故に死に行く姿を知っておられ、私たち一人一人の罪を赦し、神と和解し、神の御国における祝福に満たして下さるために、キリストは十字架に架かって下さったのです。聖餐の礼典に与るということは、キリストのこの私たちを愛して下さった故になされた御業を覚えなければなりません。そして救いの感謝と喜びを共にすることが出来るのです。
 このキリストの御業によって示された神の愛を考えることなく、イエスが神であるかどうか議論されることは、無意味であります。

                                              (2009.9.13)


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