【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「聖書が証しするイエス」  ヨハネによる福音書5章37~40節



ヨハネによる福音書5章37~40節

  5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。



序.
 私たちは、どのようにすれば、イエスさまのことを、真の神さまであると信じることが出来るのか? 主イエスは自分自身の証しは、証言にはならないと語ります。その上で、主から遣わされた洗礼者ヨハネの証言、第二に主イエス御自身が行われる御業が、父なる神さまの証言に一致することを挙げられます。

Ⅰ.神の実存性
 主イエスは次いで聖書(旧約聖書)の証言について語られます。ユダヤ人たちは、聖書に忠実に生きようと努めていました(39)。このこと自体は、私たちも見習わなければなりません。聖書にこそ、神の真理が記され、神の救い、永遠の生命の扉があるからです。だからこそ、教会においても、礼拝に出席し、説教に忠実であるべきであること、毎日家庭・個人礼拝を奨励します。旧・新約聖書は、どこを読んだとしても、人間の罪、そして神の救いが、金太郎飴のように記されているのです。
 しかし、ここで問われているのは聖書の読み方です。聖書は知的に読んで、聖書知識を蓄えても、信じたことになりません。私たちに求められていることは、聖書の出来事が、私たち自身と結びつくことです。つまり聖書に記されている罪が、自分の罪と重なり、自分のこととして理解することです。同時に罪人である私たちが、聖書に記されている救いによってでなければ、助かる道がないことを受け入れることです。しかし現実には、「自分はこのような罪人ではない」、「これはあなたに語られている言葉である」と他人事として解釈してしまうのです。そのため、聖書の言葉が、信仰を示す言葉とならないのです。
 そうすれば、聖書が語る救い主が、自分を罪の刑罰としての死から救い出して下さる方であるという実存する神ではなくなり、頭で理解するだけになるのです。つまり、形としては神を礼拝し神に救いを求めながら、実際には自分にとって救い主は必要なく、都合の良い時だけ「神さま」と呼びかける存在となり、実質は自分が神の立場に立ったいるのです。こうした信仰は、思弁的となり、人を裁く律法主義となるのです。

Ⅱ.主の御前に立て!
 私たちに求められていることは、神の御前に立つことです。私たち自身が神の御前に立ち、遜り、謙虚になり、主がお語りになる御言葉に服従することです。つまり聖書を読み、研究することにより、本当に、聖書が語る罪を自分自身のことと読み取り、聖書が語る救いが自分自身に与えられていることとして読み取る時、この救いをお与え下さる神さまを私たちは必死に求めるようになるのです。
 4章に出てきたサマリアの女は、最初、ユダヤ人である主イエスが語りかけることに対して他人事でした。出来れば関わりたくないと思っていました。しかし彼女は、主イエスが生きた水、つまり永遠に生きる生命をお与え下さるメシアであることが示された時、自らの罪を受け入れ、悔い改め、そして主イエスに従う者となったのです。そして主イエスが語る御言葉によって生きる者となったのです。私たちに求められるのは彼女の姿です。
 日々の生活・口からの言葉・心の中の感情、私たちは何一つ隠すことは出来ません。そしてそれら一つ一つが主の戒めに正しいか吟味されるのです。つまり私たちは、主の御前に立った時、誰一人として、主の裁きから逃れることが出来ないのです。同時に、死に値する罪人である私を救って下さる神さまおられるのです。この救い主の御前に私たちは立ち、また御言葉の聖書を通して探し求めていくことが求められているのです。

Ⅲ.救いをしめす聖書
 父なる神さまは、メシアとして御子をお送り下さることを、旧約聖書の時代から預言して下さっていました。そして皆の者が、それが偽預言者ではなく、神の御子キリストであると信じることが出来るようにと、御子を指し示す預言者エリアを遣わすとの約束を預言としてお語り下さっていたのです。そして洗礼者ヨハネこそが、光を指し示す預言者であったのです。そして洗礼者ヨハネは、イエス・キリストこそが、光としての御子であると語ったのです。真の救い主を真剣に求めるのであれば、ヨハネの言葉にも耳を傾けることが出来たはずです。そればかりか、御子イエス・キリスト御自身の御業の一つ一つ、神でなければ、成し遂げることの出来ない御業ばかりです。信仰の目をもって見ていれば、イエス・キリストこそが、メシアであるとの告白に至るのであり、それに気がつかないのは、御言葉に真剣に立ち会っていないからであります。
 神の御子として、この世に来られたイエスは、メシア、つまり救い主としての御業をなして下さいました。それこそが十字架です。私たちは罪の故に死を遂げなければならない、その私たち自身の罪を、2000年前にキリストが担って下さったのです。キリストが十字架に架かり、死を遂げて下さったからこそ、私たちは罪の刑罰としての死から解放されたのです。そのため、肉体の死を遂げても、最後の審判においては無罪と宣告され、神の子として、永遠の生命の祝福に入れられるのです。本当に自分自身が主の御前に立ち、自らの罪と向き合わなければ、主イエス・キリストの救いの御業を信じ、受け入れることは出来ないのです。だからこそ、私たちは、私たち自身が主の御前に立ち、主の御言葉である聖書の言葉に耳を傾け、主がお語りになる救いの言葉に聞かなければならないのです。


                                              (2009.9.20)


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