【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「湖上を歩くイエス」  ヨハネによる福音書6章16~21節



ヨハネによる福音書6章16~21節

  6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。6:17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。6:20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。



序.
 5000人養いと共に湖上を歩くイエスの記事は、マタイ、マルコ両福音書にも記されています。独自の出来事がほとんどであるヨハネ福音書において、共観福音書に記されている出来事を改めて記すことは、著者であるヨハネが重要な出来事であると判断したからです。

Ⅰ.主イエスを知らない弟子たち
 湖上を歩く主イエスの記事は、5000人養いに続けて記されています。5000人養いの出来事で、弟子たちには主イエスの御力が示されました。人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と語ります(14)。人々の主イエスに対するメシア像は、主イエス御自身の意図とは異なっていましたが、人々は主イエスを見て預言者と認めたのです。
 一方、弟子たちはいつも主イエスと行動を一緒にし、奇跡も癒しも見てきました。しかし、弟子たちは主イエスが神の子として特別な力を理解することが出来ませんでした。

Ⅱ.弟子たちの不信仰
 5000人養いの後、主イエスはひとり山に退かれたため、弟子たちは主イエスを残して湖を渡ろうとします。ペトロやアンデレなどは漁師であり、ガリラヤ湖を渡ることは普通に行っていました。しかし、彼らは荒れた湖に悩まされます。しかし彼らがさらに驚き恐れたのは、そうした嵐の中、主イエスが湖を歩いて近づいて来られたからです。25~30スタディオンは5km(4.6~5.5km)程です。南北21km、東西12kmのガリラヤ湖の中程です。水深は深く、歩くことは人間には不可能です。主イエスが、真の神の御子であることを理解していれば、驚くことはありません。しかし彼らはこの事実に驚いたのです。つまりこの時弟子たちは、主イエスの行われた奇跡・癒しを理解していなかったのです。
 しかし私たちを救いに導き、罪の赦しと永遠の生命をお与え下さる主イエスは、自然を治め命を司られるお方です。この全知全能なる主なる神さまである主イエスが、今、私たちと共にいて下さいます。そして嵐に恐れた弟子たちに安心と安全をお与え下さった主イエスは、私たちと今も共にいて下さり、私たちに安全と安心とをお与え下さいます。日本社会は、先行き不安定です。そのため、若い人たちを中心に、不安で満ちています。しかし私たちは、弟子たちを守ってくださった主イエスを信じることです。委ねることです。

Ⅲ.不信仰
 マタイ福音書では弟子たちの信仰がさらに明らかになります。マタイ14:27~30 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。ペトロは主イエスを信じようとします。しかし、完全に信じて委ねることが出来ず、自分で判断しようとしたのです。つまり、キリストがどの様なお方であるか、はっきりと知ることが出来なかった弟子たちは、キリストの御力を信じ切ること、全てを委ねることが出来なかったのです。私たちも神さまを信じようとする時、私たちの救い主である神さまがどの様なお方であるかを知る必要があるのです。
 新約の教会の歴史、そして私たち自身の歩みは、まさにペトロのようなことを繰り返しているのです。丁度、今週は10月31日の宗教改革記念日を迎えます。ルターが宗教改革を始めたのが1517年10月31日です。この日、ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に、95箇条に及ぶ煉獄や免罪符に対する抗議文を貼り付けたのです。まさしく当時のローマ教会の人々も、主なる神さまを信じていたのですが、神さまに救いを委ねることなく、自分の手で救いを獲得する手だてを取ったのです。それは聖書から離れ、最終的に教会が免罪符という紙切れ一枚で救いを売買する所まで腐敗したのです。つまり教会全体が、真の信仰、真の救いを見失い、沈みそうになっていたのです。しかし、主なる神さまは、ルターやカルヴァンを初めとする宗教改革者たちをお立て下さり、そして真の救いの道を立て直して下さったのです。
 私たちの信仰生活も同じです。私たちは主のお招きにより主なる神様を信じたのです。それは主がお与え下さった御言葉である聖書に聞くことです。神さまに委ねようとします。しかし、私たちは信じ切ることが出来ず、疑問に思い、自分の思いで行動しようとします。こうした時、私たちは、神さまから離れて、信仰が弱まり、沈んでいこうとするのです。だからこそ私たちは、繰り返し聖書に立ち戻り、神さまを信じる歩みを行うよう求められているのであり、そのために、毎週、主を礼拝するよう、主は求めておられるのです。

Ⅳ.インマヌエル
 主イエスは、「恐れることはない」(20)とお語りくださり、弟子たちと共にいて下さり、弟子たちを助けけてくださいます。弟子たちの恐れはお化けが近づいてきたかの如くです。しかし主イエスは語られます。「わたしだ=わたしは私である」。丁度、出エジプト記3章において、モーセが主によって召された時、主は自己紹介として3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお語りになりました。モーセに自己紹介された主が、弟子たちの前にもいて下さるのです。神さまが、過去においても、現在においても、未来においても「わたしはある」とお語りになるのです。つまり主は、時代を超えて、いつも存在され、変わることのない方です。そして、自然を超えて、私たちの常識を越えて、全てを治め、支配しておられます。そのお方が、今、弟子たちと共にいることをお語り下さるのです。
 私たちは、主なる神さまを直接目で見たり、直接話しを聞くことは出来ません。しかし主イエスが弟子たちにお語りになったように、私たちに対して「わたしだ」、「私はここにいる」と、今、お語りになっています。疑うことなく、救い主を信じて、歩み続けよう。

                                              (2009.10.25)


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