【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスと永遠の生命」  ヨハネによる福音書6章51~59節



ヨハネによる福音書6章51~59節

  51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。



序.
 今日からアドベント(待降節)に入り、御子の御降誕を覚える時が始まります。私たちは、クリスマスに与えられた罪の赦しと永遠の生命という、人間にとって本当の喜びが示されたのです。今年のクリスマスを迎えるにあたっても、私たちは心静まり、主がお語り下さる御言葉により救いの喜びを聞くことが求められています。

Ⅰ.ユダヤ人たちの誤解
 ユダヤ人たちは主イエスの語られた言葉(51)を理解することが出来ず、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52)と、互いに激しく論じ始めます。これはカファルナウムの会堂で主イエスが教えていた時(59)、つまり礼拝中の出来事です。私たちからすれば、礼拝中に議論を始めることなど考えられないことです。しかし説教者が間違ったことを語れば、礼拝後にそのことに関して議論しなければなりません。これが礼拝中に行われるということは、彼らが主イエスの言葉にどれほど困惑していたのでしょうか。しかし新共同訳で「激しく論じ始めた」とありますが、訳として「激しく」とは強すぎる言葉です。
 彼らの議論は「イエスの肉を食べることが出来るか」ということです。主は、旧約のイスラエルの民に、食べて良いもの・食べてはならないものを律法によって定められました。すなわち野菜や果物は食べて良い。動物の肉も食べて良いが、肉を血のままで食べてはならないのです。生きたまま命あるものを食べることは許されないのです。全ての動物や家畜は人間の支配のもとに委ねられたのですが、命は神に直属しているのです。ましてや人間の肉を食べることは殺人であり、人間冒涜・神聖冒涜です。つまりユダヤ人たちは主イエスの語られた言葉を、聖書に語られた呪われるべき者の言葉と受け取ったのです。

Ⅱ.主イエスの御業全体から考えるパンの位置づけ
 しかし私たちは、主イエスが私たちを救う為に、何を意図してこのことを語られたかを考えなければなりません。今日私たちは待降節を迎えましたが、神の御子はなぜ人となることが必要だったのですか? 罪人である私たちを救うため、私たちに代わって私たちの罪の刑罰を背負うためです。このことを忘れては、今のことは議論できないのです。つまり、主イエス・キリストは十字架に架かられるために人としてお生まれ下さったのであり、私たちがキリストによる罪の赦しと救いに与ろうとするならば、私たちがキリストと繋がりを持たなければならないのです。つまり私たちは、キリストこそが、私たちの救い主と信じる時、霊的にキリストと繋がり、キリストの十字架による苦しみと死が私たちに転嫁され、私たち自身が十字架の死を遂げたかのように、私たちの持っているすべての罪が赦されるのです。さらにキリストが三日目の朝に復活して下さったように、私たちも終わりの日に復活する希望が与えられているのです。キリストの肉は私たちのために裂かれ、キリストの血は私たちのために流されたのです。
 私たち自身が実際にキリストの肉を食し、血を飲むことはありません。しかし主イエスは、十字架に架けられる前の夜、弟子たちと最後の晩餐を行い、主の晩餐を制定して下さいました。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:19~20)。つまり私たちは信じることにより、霊的にキリストの救いに結びついているのであり、御言葉の説教と共に、聖餐式においてパンを食し・ぶどう酒を飲むことにより、キリストの十字架において裂かれた体・流された血に繋がるのです。私たちは、聖餐式において、パンを食し、ぶどう酒を飲む時、キリストの十字架において裂かれた体、流された血は、私自身の罪によって裂かれる体、流される血であることを覚えることが出来るのです。

Ⅲ.聖徒の交わり
 さて私たちは、信仰とは個人の問題であると考え勝ちです。しかしこの考えは間違いです。キリストはお一人ですが、キリストのパンを食するのは私たちです。信仰・聖餐共同体であり、教会が形成されています。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえ話が記されていますが、キリストという一本の木に、多くの房、つまり教会があり、その一つ一つの房に、多くのぶどうの実、神の民が繋がっているのです。ですから聖餐に招かれた私たち一人一人は、個人としてキリストに繋がっているのではなく、つねに教会をとおして、礼拝によってキリストに繋がり、キリストの御業によって与えられる罪の赦しと救い、永遠の命に繋がっているのです。だからこそ教会なしには救いはないのです。
 だからこそ私たちは、聖徒の交わり、教会における豊かな交わりを重んじるのです。信仰・礼拝・聖餐共同体であり、一人が苦しみを覚えれば助け、励まし、祈るのです(参照:Ⅰコリ12:27)。病の者がいれば主に癒しを求めて祈るのです。キリストの体に属する人間で、不必要な人はいません。これが執事活動(ディアコニア)となるのです。兄弟姉妹の痛みを自らの痛みとして覚え、重荷を共に負い、支え合うのです。
 つまり、聖餐式によりキリストの肉を食らい、キリストの血を飲むことにより、救われ、永遠の生命に生きるキリスト者は、キリストに連なる信仰共同体に属する者として、与えられる永遠の生命に向けて、信仰生活を営むのです。
                                         (2009.11.29)


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