【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「命であるイエスを信じよ」  ヨハネによる福音書6章60~65節



ヨハネによる福音書6章60~65節

  60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」



Ⅰ.弟子たちの離反
 私たちは、主なる神さまを信じた者は、皆、神の救いに与ることを信じています。しかし、実際には「主よ、主よ」と語る者が、皆救われるのではありません。
 今までは、ユダヤ人たちが主イエスの言葉を批判していたのですが、今日の御言葉では、今まで主イエスに従ってきた弟子たちも、主イエスの言葉に躓きます(参照:詩編41:10、ヨハネ13:18)。弟子たちの離反の顕著な例がイスカリオテのユダです(参照6:66~71)。
 一方、12弟子は主イエスの元に留まります(67)。弟子と12弟子とは違うのです。「使徒=派遣された者」とも呼ばれ、キリストによって召されたのです(70,15:16)。主イエスによって集められた者と、自分の意志で主イエスに従ってきた者との違いは大きいのです。
 つまり神のよる救いは、自らの信仰によって勝ち取るものではなく、主なる神さまによって与えられる選びによります。神の選びは、神さまによって神の民とされ、神の国に入れられる神の子のすべてに及びます(6:65,6:37-38)。

Ⅱ.天に上ることにより救われる
 ではなぜ弟子たちは主イエスの言葉に躓いたのでしょうか。彼らは、主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54)と語られた言葉に躓きます。しかし、主イエスは彼らにもう一つの躓き(昇天)について語り始めます(62)。「元いた所に上る」とは「前にいた所から下ってきた」ことが前提です。つまり私たちは待降節を守っていますが、この時御子の十字架と復活・昇天も覚えるよう求められているのです。
 キリストの「上り・下り」を考える時、我々の救いと直接的な関係が出て来るのです。つまり救いとは、天に座しておられる父なる神さまに繋がることです。本当ならば、私たちが神によって創造された時の状態で、天に属しているならば、救いを求める必要はなく、常に創造主であり救い主である主との豊かな交流をもち、永遠の生命が約束されていたのです。しかし人間には罪があり、主なる神さまとの間に断絶があります。そのため私たちは自分の力で、父なる神さまの所に行くことは出来ないのです。この断絶を超えて私たちが救われ、神の国における永遠の生命を得るためには、橋渡しが必要となるのです。それがイエス・キリストです。神の御子であるイエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちが天に座しておられる主なる神さまとの橋渡し、仲保者となってくださったのです。
 しかし、天から御子がこの世に来てくださるだけでは、私たちは父なる神さまと繋がることは出来ません。救いとは、滅び行く私たち人間が、神の御許、天に上げられることが必要だからです。だからこそ、御子が天に昇られることにより、初めて私たちもまた天におられる父なる神さまとの繋がりが出来るのです。パウロはフィリピ2:6~11で、このことを端的に告白しています。また共観福音書でも、主イエスが天に属する者であることを、御姿が変貌することにより示します(マタイ17:1~13、マルコ9:2~13、ルカ9:28~36)。
 この仲保者イエス・キリストによって父なる神さまに繋がるため、私たちは信仰が求められるにです。そして信仰を確認するものとして、御言葉の説教と共に、聖餐の礼典を私たちにお示し下さったのです。キリストの肉として差し出されたパンを食し、キリストの血として差し出されたぶどう酒を飲むことにより、霊的には、もう私たちは天に属し、永遠の生命に属する者とされるのです。しかしキリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことは、霊的に父なる神さまに繋がることが重要なのであって、弟子たちが躓いたように、地上にあっては朽ち果てていく肉に固執していてはならないのです。

Ⅲ.永遠に生きる者
 しかし地上に属する者は、主なる神さまとの霊的な関係を理解することが出来ません。肉に属する人間は目に見えるものしか、見ることが出来ないからです。だからこそ彼らは、メシアは、ローマからイスラエルを再建してくださる王であることしか頭に描くことが出来なかったのです。
 しかし主イエスがお示し下さった救いとは、父なる神さまに属すること、交流することです。また主なる神さまは肉を持つことなく、霊によって生きておられます。だからこそ、私たちが救いを求める時にも、霊による救いを求めなければなりません。人間的な頭で解釈しようとするからこそ、理解できないのです。私たちの側で、一生懸命、聖書を勉強し、神さまに近づこうとしても、ここで語られている弟子たちのように、躓くのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われるのです」(使徒16:31)。つまり、主なる神さまにすべてを委ね、信じることです。疑わないことです。そうすれば、主が、私たちに対して、救いの御手を差しのばしてくださり、罪の赦しと永遠の生命の約束に入れてくださるのです。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。

                                         (2009.12.6)


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