【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神の定める時」  ヨハネによる福音書7章1~9節



ヨハネによる福音書7章1~9節

  7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。





Ⅰ.兄弟たちの思い
 主イエスはガリラヤで福音宣教を行ってきております。多くの人々が「わたしの肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)との言葉に躓き、主イエスから離れて行きました。しかし主イエスは、なおもガリラヤを巡り福音宣教を続け、残った弟子たちの教育を続けておられます。
 そうした中、主イエスの実の兄弟たちは、ユダヤ(エルサレム)に行くことを求めます(3~4)。ガリラヤはイスラエルの中で田舎でした。一方エルサレムは政治的に絶対・宗教の中心地であることは間違いありません。兄弟たちは、正しいことを行っているのであれば、多くの人々に認められる所の方が良いではないかとの思いです。そして都エルサレムにおいて盛大に奇跡を繰り返し、人々の注目を集めれば良いではないかということです。
 伝道を行い、一人でも多くの人たちに福音を伝えることでは、兄弟たちの語っていることは一見正論に聞こえます。しかし私たちは、主イエスの兄弟たちが何を求めて、この様なことを語ったかを吟味しなければなりません。ヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(5)と記します。兄弟たちは、主イエスが十字架の死と復活・昇天の後、主イエスを信じる者となります。ヤコブはエルサレム教会の中心的な指導者としてエルサレム会議などでも登場し、またヤコブの手紙を記します。しかしこの時はまだ、主イエスを信じておらず、主イエスの御業を表面的に、世的に見ていたのです。そして、主イエスが何を宣べ伝えているのかの理解がまったくないのです。
 主イエスは、何も密かに行動していたわけではありません。隠れることなく正々堂々と福音宣教を行っていたのです。その上で、御言葉と共に奇跡や癒しの御業も行っていたのです。福音宣教に求められることは人々に注目を浴びる事ではありません。大切なことは、福音宣教において語られる内容です。奇跡など派手やかな事が行われて人々が集まってきても、福音の言葉に躓くのであれば無意味です。たとえ集まる人数が少なくとも、救いを求め、イエス・キリストの十字架の御業による救いという福音の確信を語り続けることこそが福音宣教の中心です。
 兄弟たちは「公」・「ひそかに」と語ります。では私たちにとって、信仰とは公であるのか、それとも私的であるでか。日本人の多くは信仰は私的なことであり、公的なこと、仕事や自治体活動を優先する嫌いがあります。しかし、神さまを信じる生活が私たちの生活の基盤となり、私たちの生活の中心でなければなりません。私たちは日本人として社会や企業・学校に属する前に、神の国に属する神の子、神の民なのです。そして、私たちの第一の目的は、神の栄光を帰し、永遠に神を喜びとするのです(ウ小教理1)。食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにするのです(Ⅰコリント10:31)。信仰が個人的なことし社会の次に置いている精神こそが、日本における伝道の妨げです。信仰共同体、聖餐共同体である教会の姿を、私たちは忘れてはなりません。

Ⅱ.主イエスにおける祭りの位置づけ
 さて主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」とお語りになります(6,8)。主イエスが語る時とは、十字架にお架かりになる時です。このことを解釈する上で、この時が仮庵祭であったことに注目しなければなりません。ユダヤにおいては三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)があり、その度にエルサレムの神殿に参る、そして盛大な祭りに参加する習慣がありました(申命記16章)。その中で仮庵祭は、現在の10月初旬あたりであり、通常は秋の収穫を感謝するために行われていました。しかし「仮庵」とはつまり仮の庵(小さな小屋)であり、今でいうテントです。出エジプトを果たしたイスラエルが荒れ野を彷徨う時、天幕が与えられたことを感謝し、主の恵みを覚えるために始まった祭りです。
 一方 主イエスが十字架に架けられるのは過越祭の時です。過越祭とは、イスラエルの民が出エジプトを果たす時、エジプトの長子がすべて滅ぼされようとしますが、主がイスラエルの家は過ぎ越して、裁きがもたらされないように家門に血のしるしを付けることから始まります。過ぎ越しの食事は、過ぎ越しを迎えるにあたり、救いが与えられたことを主に感謝を献げながら、主によって定められたとおりに食事を行っていたのです。そして、主イエスが十字架に架けられる前の夜、主イエスと弟子たちとの間で行われた過ぎ越しの食事こそが、最後の晩餐となったのです。そしてその後、主イエスは逮捕され、十字架への道を歩んで行かれるのです。つまりイエス・キリストの時とは、過越祭の時に、主イエスの十字架の御業がなされ、主イエス・キリストによる救いが完成する時です。言い換えれば、主イエスの時、十字架の御業により、過ぎ越しの救いは完成するのです。だからこそ、主イエスの時とは、、過越祭まで待たなければならなかったのです。
 そして、主イエスの御業が完成することにより、神の民キリスト者は、仮庵(天幕)の生活から解放され、神の宮に属する者とされるのです。それを象徴する行為として、主イエスが十字架において死を遂げた時、神殿にあった至聖所と聖所を区切る幕が裂けたのです。これは主なる神さまが、地上において仮の宿である神殿に住み続けられるのではなく、神の国に在される主なる神さまと、地上に生きるキリスト者との間で、聖霊を通して、どこにあっても豊かな交わりにあることが示されたのです。つまり仮庵は廃止され、過ぎ越しは完成するのです。それがキリストの十字架の御業です。そういう意味で、主イエスはこの時、「わたしの時はまだ来ていない」と語られるのです。しかし今、主イエスの時は到来し、十字架の御業は完成しました。そして今私たちには、主イエスの御言葉と神の国がはっきりと示されています。救いの喜びに満たされて、新しい年を迎えたいと思います。

                                         (2009.12.27)


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