【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスとは誰だ」  ヨハネによる福音書7章10~13節



ヨハネによる福音書7章10~13節

  10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。



序.
 先週、イエスの時、つまり十字架の時はまだ来ていないことをお語りしました。その続きとして、前の文脈を思い出しつつ、御言葉に聞かなければなりません。

Ⅰ.エルサレムに上られる主イエス
 聖書は、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も人目を避け隠れるように上って行かれたと語ります(10)。8節において主イエス御自身が、「わたしはこの祭りには上って行かない」とお語りになったことと、まったく矛盾した行動のようです。なぜなのか?と考えてしまいます。主イエスは嘘を語ったのでしょうか。しかし私たちは、主イエスがどの様な意味で「わたしはこの祭りには上っていかない」と語れたのかを考えなければなりません。つまり主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」(6)とお語りになります。主イエスの語られる「わたしの時」とは十字架の時です。私たちは、主イエスが十字架の時にどのようにエルサレムに上られたか確認しなければなりません(12:12~15)。この時、主イエスは子ロバに乗り、人々の賞賛を受けながらエルサレムに上られました。子どもの芝居のようですが、主イエスは平和の象徴として、王の王、主の主として、エルサレムに上られたのです。そしてこの後、十字架へと繋がるのです。つまり、主イエスが「公」に人々に迎え入れられてエルサレムに入城する時は、王の王、主の主としての姿でです。この時こそが、主イエスにとっての「わたしの時」であり、「公」であります。
 こうした形で、王の王、主の主としてエルサレムに入城しない今回は、主イエスにとっては正式にエルサレムな入城ではなく、そのことを主イエスはお語りになったのです。
 しかし同時に、主イエスは私たちの救いを完成するために、私たちの果たし得ない律法をまっとうすることが求められています。そのため三大祭としての過越祭、七週祭、除酵祭にはエルサレムに上られたのです。つまり主イエスはまだ公を表す時ではないために「わたしの時はまだ来ていない」と公に宣言されたのですが、一方にあって律法を成就する意味において、エルサレムにこっそりと上られたのではないでしょうか。

Ⅱ.イエスとは誰だ
 一方、ユダヤ人の間では、主イエスがエルサレムに上って来られているのかが、関心の的でした。彼らは主イエスの命を狙っていたのです(1)。ユダヤ人たちが主イエスの命を狙い始めたのは、ベトザタの池で主イエスが病人を癒してからです(5章)。この日は安息日であり(5:9b)、ユダヤ人たちにとっては、病人を癒す行為が「律法で許されていない」行為であったのです(5:11)。この事をきっかけに、ユダヤ人による主イエスの迫害が始まります(5:16)。そして主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と語られたことにより、ユダヤ人たちの怒りは有頂天を迎えていくのです。
 一方、一般の人たちにとっては、主イエスの評判は定まっていませんでした(12)。癒しの御業にあずかったり、見たりした人たちは、主イエスに好印象を持ちました。一方、主イエスの語られる御言葉から来るユダヤ人たちの怒りに賛同する人たちもいたのです。ユダヤ人たちの反応を鵜呑みに信じて、反対している人たちも多かったのです。またユダヤ人を恐れて公然と語ることの出来なかった人たちもいます(13)。信仰生活は、こうした御上意識を持っている群衆との戦いでもあります。

Ⅲ.私たちの信仰
 主イエスの「わたしの時」を迎え、主イエス・キリストの十字架の死と復活・昇天の御業は、2000年前に成し遂げられました。主イエスは今、隠れることなどなさることなく、主の主、王の王として、世界を統治し、聖書・御言葉をとおして、私たちに救い主であることを明らかにされています。
 今、私たちに求められていることは、栄光に満ちて御自身を提示されているイエス・キリストを隠すことではありません。権力者が語ること、周囲の人々が語ることに、翻弄されてはなりません。私たちの主、私たちの礎は、イエス・キリストです。私たちはイエス・キリストの十字架があるからこそ、罪赦され、永遠の生命が約束されているのです。そして救い主である神を誉め称え、神を喜ぶことこそが、私たちの生活の中心であり、飲むにも食べるにも何をするにも、神の栄光を表すために行うのです。そのために私たちは、イエス・キリストが、私たちの救い主であることをはっきりと告白することです。そしてイエス・キリストが律法をまっとうし、私たちに示された道を、私たちも歩むことです。

                                         (2010.1.3)


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