【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスとは誰だ」  ヨハネによる福音書7章14~24節



ヨハネによる福音書7章14~24節

  14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」



序.
 受験戦争といった言葉をよく耳にします。人間を判断する尺度として学歴が問われるからです。実際の能力は関係なく、○○大学という看板が、判断材料となっているのです。

Ⅰ.ラビ
 こうした競争は、どこの国でも、また時代を超えて存在することです。ユダヤ人の間では、子供のうちから聖書の読み書きが出来、聖句を暗唱し、自由に引用出来るような教育を受けていました。その教育が済んでいる人なら、安息日に会堂で聖書朗読と解き明かしをする資格があったのですが、通常は専門的な訓練を受けていた人々によって行われていました。学者になるため、人々はラビにつき訓練を行ったのであり、専らエルサレムで行われていました。例えば、タルソス出身のパウロの場合、彼は海外から帰国したユダヤ人であって、名門の学校ガマリエルのもとに学び、キリスト教に入信する以前にユダヤ人社会ではすでにかなり重んじられていました(使徒22:3~5)。

Ⅱ.主イエスの教え
 それと比較するとナザレのイエスの場合、宣教の拠点はガリラヤであり、エルサレムのどの学校にも在学していないことは、明らかでした。ただ特別な学歴はなくても、正しく教えることが出来ればラビと言われたのであり、人々は主イエスに対してラビ(先生)と呼び掛けていたのです。つまり一方にあって人々はどこのラビについて学んでいるのかを気にするのですが、他方、学識があれば学歴は関係なく認める部分もあったのです。
 ファリサイ派に属するニコデモは主イエスの教えを受け入れ、慕っていました(3章)。
 また、主イエスがサドカイ人との間で復活に対する問答を行っていた時(ルカ20:27~)、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」という者もいたのです(ルカ20:39)。
 そして、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と語る者も多かったのです(ヨハネ7:15)。
 つまりユダヤ人は、主イエスがどこで学んだかは問題であったが、一方主イエス御自身の持っておられる聖書の知識には、一目置いていたのです。

Ⅲ.神の教え
 ユダヤ人たちにとって律法を学ぶことは、モーセが起源であり、それを引き継いだラビたちの教えを受け継ぐことが大切でした。先生の真似をすることが第一です(申命6:6~9)。しかし立派なラビは、豊富な聖書知識を継承すると共に、自らの論理を持ち自らの理論を付け加えていきました。そのため、主がモーセをとおしてお語りになった律法とはかけ離れた教えが教えられ、また後の時代の人々に伝えられていったのです。つまり主イエスがユダヤ人たちに語ろうとされることは、「あなたたちの語っている言葉は、神の言葉として正しい言葉を語っているつもりだが、自分たちの都合に合わせて解釈されており、自分の栄光のために語る自分の言葉である」と言われたのです。自分勝手に、自分の栄光を求めることは、神に敵対することで、人間の言葉は廃れていくのです。
 一方主イエス御自身が語る教えは、主なる神さまから直接出た教えであり(16,18)、永遠の残る不変の言葉です。だからこそ自分の栄光を求める言葉に歪められていないのです。
 主イエスのように主の言葉に直接聞くことは、現在の私たちにも求められています。そのため主は、御自身の言葉を聖書にまとめて下さっています。だからこそ、神のことばの説き明かしである説教は、聖書が正しく説き明かされなければなりません。宗教改革において、翻訳された聖書と説教が重視されたのはそのためです。しかし聖書も自由に解釈されると自分の言葉になります。そのため聖書を正しく解釈するための指針として、信条が必要となるのであり、私たちの教会ではウェストミンスター信条を採用しているのです。
 さて主イエスの語られた言葉は何がすごいのか。主イエスの教え・奇跡・癒しは、ファリサイ人のように他人の罪を裁き自分の誉れを讃えることはなく、死んだも同然であった者に命を与える御業なのです(参照:サマリアの女(4章)、ベトザタでの癒し(5章))。ユダヤ人たちは、ベトザタでの癒しが安息日に行われたことに怒ります。しかし、ここに人を生かす主なる神さまの御栄光が、はっきりと示されているのです。
 私たちは聖餐の恵みに与ります。主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)と語られた言葉にユダヤ人は躓きますが、キリストが十字架に死に、肉が裂かれ、血が流されたことにより、主イエスを信じる私たちの罪が贖われ、神の子としての永遠の生命に入れられたのです。

                                         (2010.1.10)


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