【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「うわべで裁くな」  ヨハネによる福音書7章14~24節



ヨハネによる福音書7章14~24節

  14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」




序.「見た目」の重要性
 暫く前に「人は見た目が9割」(竹内一郎:著)という本がベストセラーになりました。日本語には「百聞は一見にしかず」といった諺もあり、「見る」ことは情報を得るための大きな手段の一つであることを語っています。

Ⅰ.言葉の力
 一方言葉はどうか。今、言葉の力は失われています。ワンフレーズで叫ばれます。中身は分からない看板だけです。中身は保証されておらず悲劇をもたらします。看板だけで自分勝手に判断し、真理を確認する作業を行わないからです。ツー・カーの関係を創り出すには、時間をかけ多くの会話を行うことにより、徐々に積み上げていくことができるのです。それは目で見て、肌で感じて、感覚を積み重ねていくのです。
 16日、朝日新聞夕刊に渡辺信夫先生の記事が掲載されました。カルヴァンの「キリスト教綱要」の2回目の翻訳を行ったことが記されていました。(今回は)「前より文章が長く、あえて読みにくくした」と語られています。それは「分かりやすさと、真理に迫ることは必ずしも関係しない」からです。ここに真理契機があります。一回では理解できないことばを繰り返して読むことにより、行間にある真意を読み取ることが出来るのです。

Ⅱ.ユダヤ人たちの殺意
 主イエスは、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24)と語られます。主イエスは、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」(19)と語られ、「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」(21)と語ります。ユダヤ人たちが主イエスに対して殺意を持ったのは一つの出来事がきっかけでした。それは5章の最初に記されているベトザタにおける病人の癒しです。主イエスは、38年もの間、寝たきりであった男を癒し、歩き、自分で働くことが出来る体をお与えになります。しかしこの日が安息日であったため、ユダヤ人たちは安息日違反を問題にいたします(5:9b-16)。その後、主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6:54)、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7:16)と語られることにより、その殺意が強くなっていきます。
 ユダヤ人たちには二つの誤りがありました。①自分たちが律法を逸脱していることを理解をしていないこと。②なぜ主イエスが癒しの業を安息日に行われたかを理解しようとしなかったことです。
 十戒を理解する上で重要なのは序文です(申命記5:6)。唯一の主、唯一の救い主である神さまは、イスラエルを救い出して下さった上で、主の民として歩むために必要なことを教えて下っています。「律法の戒めを守ったらあなたを救う」のではありません。主によって一方的に救い出された者が守るべきこととして十戒が示されているのです。
 その上で第四戒が教えられています(申命記5:12~15)。ここで重要なことは、主を聖別し、一週の内の一日、救い主である神さまを覚え、礼拝を献げることです。そのために日々の働きから離れるのです。このことは同時に、日々の労働における肉体の苦痛を和らげることでもあります。私たちの苦しみを主はご存じであられ、主の憐れみが、一日を休息するということを求めているのです。そしてこの主の憐れみは、主人ばかりか、家族、女、子供たち、そして人権すら与えられていなかった奴隷にまで及ぶのです。しかしユダヤ人たちは真意を変え、守らなければ罰せられるものとしてしまったのです。そして、「ここで語られている仕事とは何か」、「どこまでは許されているのか」など、主が意図されていないことを、後の人々は加えていき、律法を人々を裁く道具としていったのです。
 そして彼らは、主イエスが安息日に癒しをされたこと、癒された者が床を担いで歩いたことを、理由も理解せず杓子定規に裁いていくのです。

Ⅲ.安息日の目的
 しかし安息日は主が私たちを聖別して下さる日であり、主による救いが明らかにされる日です。だからこそ私たちは、主の日である日曜日に主の御前で主を礼拝するのです。私たちは、肉体の休息が必要なのと同時に、神による救いを繰り返し確認しなければ、霊的に弱ってくるのです。主イエスが安息日に病人を癒されたのは、まさに主の救いが彼の上にはっきりと示され、彼自身が主を覚え、感謝と喜びをもって主を賛美し、礼拝するためです。ユダヤ人たちは、このことをまったく理解できなかったのです。
 主イエスは割礼を例に出して語ります(22-23)。主はアブラハムの時代、恵みの契約のしるしとして、イスラエルの民が生まれて8日目の男の子に割礼を受けるように命令されました。神に繋がり、神の子として、救われるためには必須であることをユダヤ人たちは理解し、彼らは安息日であろうとなかろうと割礼を施していたのです。しかし割礼を授かる時に重要なことは、神の子とされることを確認すること、神の恵みに生かされることです。このことを安息日毎に確認するのです。しかしユダヤ人たちは、「安息日に仕事をしてはならない」ことにのみ着目し、主イエスの言葉・行いを裁いたのです。

 私たちに求められていること。第一に正しい判断基準、つまり自分の考え・人の考えに歪められている状態から、聖書に立ち帰ることです。そして第二に、主イエスが行われた癒しの意味を考え、理解することです。それは私たちの日々の生活にあっても、人の言葉や行動を直感的に判断するのではなく、行間・意味をくみ取った上で、判断することです。一つの言葉、一つの行いに一喜一憂して、人を裁いてたり、人格を断定してはなりません。


                                         (2010.1.24)


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