【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスの行く所」  ヨハネによる福音書8章21~24節



ヨハネによる福音書8章21~24節

  21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」




Ⅰ.「この世」と「神の国」
 主イエスは「どこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」(14)とお語りになりました。私たち人間は、母親の胎から生まれ、地上での生活を営み、そして死において終わると考えるわけで、直線的です。しかし神の御子である主イエスは、父なる神さまの御許から来られ、そしてそこに帰られるのであり、地上における生涯の時間軸と共に、地上と天上という空間軸も存在するのであり、二次元的に考えなければなりません。このことを理解することは重要なことですが、主なる神さまを信じることの出来ない人々にとっては理解しがたいことです(7:35、8:22)。
 今、主イエスはユダヤ人たちのすぐ目の前に立っておられます。しかし主イエスはこの後に、人々の前から姿を消します。ユダヤ人たちによって殺されるからです。しかしこの時は誰もこのことを理解することが出来なかったのです。そして主イエスは死から復活を遂げ、神の御国へ昇って行かれます。そして神の栄光が取り戻されるのです。
 ユダヤ人たちは自らの救いを求めメシアを捜し求めていますが、主イエスの所に来ることはなく、むしろ自らの手によってメシアであるイエスを十字架に架け、殺します。つまり今はメシアの前に座しているユダヤ人たちですが、メシアはまったく手の届かない所に行かれ、むしろ自分たちは、罪の内に死ぬことになるのです。
 私たちはユダヤ人たちのようではないと思っています。それは本当か? 御子イエス・キリストが行かれる所をはっきりと見据えているでしょうか? 救いを求めようとすれば、キリストが行かれた所に、私たちも一緒に連れて行っていただかなければなりません。それが唯一の生きる道です。死から命への道、それを導いて下さるのはキリストだけです。キリストを救い主として受け入れ、信じなければ、誰もが罪のうちに死ぬ他ないのです。

Ⅱ.上に属するキリスト
 キリストは天に属する者であり、私たちは地に属する者です(23)。当たり前のことですが、これを忘れてしまうのです。自分で天国を求めようとするのです。
 一方キリストは、天国に属する者でありながらも、私たちを救うために遜り、この世に属する私たちの所に降りてきて下さいました。そして、キリストは御言葉をとおして今私たちの目の前にいて下さいます。そしてキリストはこの世に属している私たちに対して、キリストを信じ、救いを求めることにより、天に属する者、神の子として下さり、義と聖が与えられ、永遠の生命に与る特権をお与え下さるのです。ですから、私たちは救いを求めるならば、天に属するキリストに出会わなければなりません。そのためにキリストの十字架に繋がらなければなりません。キリストが私たちの罪を贖って下さったのです。キリストの十字架を信じる者は、キリストと共に神の国に属する者とされるのです。
 信じるとは、キリストの生活に倣う、倫理的になることではありません。この世における生活の安定や、この世的な概念でもありません。天に属する者、永遠の生命に生きるイエス・キリストと出会い、神の国、天国における永遠の生命が与えられることです。
 私たちが主なる神さまを信じる時、主は聖霊により私たちと共にいて下さり、神の子としてのすべての特権が与えられるのです。地上の生活において主は、神の子に耐えられないような苦しみに置かれることはありません。また私たちが天に属する者として、キリストが十字架の死から復活を遂げ、天に昇られたように、私たちにも肉の死において終わりではなく、永遠の生命が約束されるのです。

Ⅲ.「わたしはある」という神
 「わたしはある」これは非常に理解しずらですが、一方、たいへん重みのある言い方です(参照:出エジプト3:14)。ここに神御自身の存在が語られており、「ある」とは、過去にあって存在し、現在存在し、未来にあって永遠に存在することです。つまり、神御自身の永遠性、つまり無限・不変・永遠に存在しておられる神であることを語っています。
 皆さんは、自分自身の存在について揺らぐことがあるのではないでしょうか。人を傷つけた時、人に傷つけられた時、苦難・艱難にある時などです。自分一人いなくても構わないと思ってしまった時、人は虚無感に陥り、自殺願望も芽生えます。自分の存在価値が揺らぐことは、ここに罪があるからであり、自分を見失ってしまうからです。
 しかし、「わたしはある」と言われる方が、私たちの救い主として私たちと一緒にいて下さいます。そして「わたしはあなたを愛する。愛するが故に、あなたのためにキリストが十字架に架かった」とお語り下さるのです。あなたは永遠の生命に満ちておられる神に愛されているのです。貴い存在であることが示されているのです。サマリアの女、ベトザタの池で癒された男のように罪人、無価値な病人とされている人々であっても、キリストと出会い、キリストを信じることにより、天に属する神の子として主はお迎え下さいます。
 私たちにとって最も重要なこと、それは天国に属する主イエス・キリストに出会うことです。そしてキリストを知ることにより、天国における永遠の生命への歩みが開けていくのです。この世に属する者として、死を待つばかりではなく、天に属するキリストによって神の国の永遠の生命を求め続けていこうではありませんか。

                                         (2010.4.25)


COPYRIGHT(C) 2010 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る