【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「安息日を守るとは?」  ヨハネによる福音書9章13~17節



ヨハネによる福音書9章13~17節

  13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。


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序.
 ヨハネ9章は、生まれつきの盲人が主イエスによって癒され、キリストを告白する者とされていく過程が記されています。聖書を読む時は、常に前後の文脈を考えながら読む必要があります。ですから今回も9章全体を思い浮かべつつ、読み進むことが求められます。

Ⅰ.戸惑う人々
 前回は、目が癒された男が主イエスの御業を受けてから、信仰告白へと促されていく聖化の歩みを中心に見てきました。今回も彼の聖化の歩みを確認しますが、同時に滅びの道に示されている者の姿も確認します。つまり主は、救う者とそうでない者とを予め定められており、主の御業・御言葉が語られること・聖霊の働きにより、明らかになってくるのです。ですから、神さまの御業が示されることにより、神の民はキリスト者としての歩みを深め、そうでない者たちは主から離れていく様子を、御言葉は語っていくのです。
 盲人であった男から主イエスが癒して下さった事実を知らされた人々は、直接、主イエスが彼を癒した所にいませんでした。しかしその事実を聞いたのです。しかし、彼らはこの事実を確認しようとしませんでした。つまり彼らは信じようとしませんでした。困惑していたのでしょうか。彼らは自分たちで判断することを恐れ、この真実性、また主イエスが安息日にこの事を行ったことが妥当かどうかの判断をファリサイ人に委ねたのです。つまり、彼らは真の救い主が近くにいるにも関わらず、離れて行ったのです。
 皆さんは、教会に来ることに戸惑い困惑はないでしょうか? 皆さんが教会に来られたことは、生きて働く主なる神さまの御働きがあるからです。そして今、主は私たちひとり一人に主の恵みによる救いにあることを語りかけて下さっています。しかし、困惑を持ちながら主の御前に立ち、主なる神さまを疑い、主の御言葉に聞こうとしないことは、ここで盲人であった男をファリサイ人に委ねた人たちと同じです。自分には関係ないと思い、人任せにしていてはならないのです。主はあなたに救いをお示し下さっているのです。だからこそ、主の御前に立ち、主による救いを受け入れることが求められているのです。

Ⅱ.ファリサイ人の言動
 盲人であった男はファリサイ人の所に連れて来られました。ファリサイ人たちは最初に彼に尋問を行います。男を連れて来た人々の証言が真実であるか、確認しなければなりませんので当然のことでしょう。男からの証言を聞いた時、私たちであれば何をするでしょうか?そのことが真実であるかどうか確認するのです。これは正式な裁判ではありませんが、真偽の確定が求められていました。ファリサイ人には、その答えを人々に語る責務があります。ですから通常、主イエスがこの男を癒された時に共にいた人々から事情を聞くのです。彼は盲人でしたので、一緒にいた人、あるいは手助けをした人々がいたはずです。男が癒されたと語る「あの方」、つまり主イエスにあたることも考えられます。
 しかし彼らはそうしたことを一切行わず、語り始めます(16)。ここで語られている二つの意見は、語り方は異なりますが、この人が盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかったことにおいては一致していました(18)。つまり事実を確認して、「この様な御業を行うのは、神から来た救い主ではないか」と考える者は、いなかったのです。ここに、神の救いにない者たちの歩むべき道が示されているのです。つまり彼らは、主イエスが盲人を癒した奇跡の問題に対処しなければならないのに、安息日問題を持ち込んだのです。本来ならば、一つひとつ、別々に取り扱わなければならない問題でした。しかし彼らは最初からイエスが罪人であることを決めつけた上で、二つのことを一緒に考えたことにより、より混乱し、イエスを救い主として確認することが出来なかったのです。

Ⅲ.主による救いに入れられるとは...
 ですから彼らは、主イエスが盲人を癒すことにより、主から遣わされたメシアであることを確認することが出来たはずです。その上で、安息日とは何かを考えることは出来たはずです。そもそも安息日とは、ユダヤ人たちが語るように「働いてはならない日」ではありません。安息日とは「主の安息日」です(出エジ20:10)。安息日は主を祝福し聖別する日です(創世2:1~3)。主が天地万物を創造された時、「それは極めて良かった」のであり、主を祝福するために聖別し休息すれば良かったのです。しかし罪の中にある現在にあっては、罪の赦しと救いという再創造がされた上での安息が求められるのです。罪の赦しに与えられない所に、真実の安息はあり得ないのです。だからこそ主イエスが安息日に癒しを行ったことは、まさに再創造であり、この男は癒しにより、罪が赦され、救われことによる、本当の安息が与えられたのです。
 だからこそ、男は、最初、主の癒しの御業に与った時、こっそり家に帰っていこうとしますが、人々から指摘され、事実を隠さず告白する者とされ、それが誰であっても同じ告白をする者となります。真実を語ることにより、他人からどの様に思われ、あるいは裁かれるかは関係ありません。彼の両親とは違います(20)。そして癒して下さったイエスが、「預言者です」と告白する者へと押し出されていくのです。「預言者」とは、主なる神さまによって使わされた者です。メシア(救い主)であるかどうかは定かではないが、主なる神さまから使わされたことは事実であると告白したのです。
 どうでしょうか? 主は、一人の盲人を癒すことにより、主イエスこそが救い主であり、罪の赦しと救いを完成する者であることを示しておられます。そして、その主の癒しの御業に与った男は、自らの意志以上に、主の働きかけ、周囲の人々との関係において、主イエスを受け入れ、救い主として信じるように、促されていくのです。
 一方、彼をファリサイ人の所に連れてきた人々や、ファリサイ人は、主イエスの御業が示され、確認すれば事実を知り、主の御業であることが示されるにも関わらず、自らその事実から遠ざかり、滅びの道を歩み続けるのです。救いとは、主から一方的に与えられる恵みです。しかし、無関心であること、自ら離れていくこと、拒絶することにより、その人は、自ら主がお与え下さろうとしている救いから離れ、滅びの道を歩むのです。
 だからこそ、主イエス・キリストの御業、特に十字架の贖いが示されている今、私たちは、無関心であったり、主から遠ざかったりすることなく、主から与えられている恵み、救いに感謝して受け入れ、主に従っていくことが出来るように、求められています。主は聖霊をとおして、いつも、私たちと共にいて下さいます。だからこそ、主から離れる者ではなく、常に主と共にあり、主の救いに感謝して歩む者でありましょう。

                                         (2010.7.18)


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