【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「主の御前で生きるとは・・」  ヨハネによる福音書9章17~23節



ヨハネによる福音書9章17~23節

  17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。




Ⅰ.盲人であった者の信仰
 生まれつき盲人であった男は、主イエスにより目を癒していただき、同時に永遠の生命に導かれて神の子とされました。最初、彼はただ目が癒されたことを喜んだだけでしたが、すぐに事実を隠すことなく人々に証しすることが求められるようになりました。隠そうと思えば隠すことの出来る過去を隠すことなく証言することは、信仰のなせる業です。
 そして彼に与えられた信仰は、主イエスについて「あの方は預言者です」(17)と告白させます。ユダヤ人社会では、この告白を行うことは、会堂から追放され、社会から締め出されることを意味します(22)。やっと目が見えるようになり、自分の力で生きる手立てが出来た矢先に、彼は自らそれを断ち切るような行動を行ったのです。しかし彼の行動は、主イエス・キリストにこそ真の命、真の救いがあることが示されたからであり、人間社会のしがらみから解放された結果です。まさに神さまを信じるとは、彼のように主なる神さまから一方的に与えられ、彼の心が変えていくことがあるのです。彼の心の変化は、主イエスと出会い、主存在・御力を知り信じたことから生じた結果です。
 私たちに求められることは、この生きて働く主なる神さまの存在を受け入れることです。神さまの存在が私たちの前で小さければ、神さまの救いの御業、愛よりも、自分の行動が優先してしまい、周囲の人々の反応を気にしてしまいます。そして神さまの御力を限定してしまうのです。私たちに求められるの、この男のようなこの真実な信仰告白です。

Ⅱ.ユダヤ人社の信仰
 一方でユダヤ人は、主イエスの行われた御業を信じることが出来ませんでした(18)。そして彼らは主イエスを信じるものを追放し、主イエスを十字架に架けるように進んでいきます。彼らにとっての信仰とは何を意味していたのでしょうか?彼らもまた救いを求めていたのです。
 彼らにとっての救いは、律法を守ることによって獲得できるものでした。彼らにとっての律法とは、旧約聖書そのものではなく、律法の専門家たちの言い伝えでした。それらは旧約聖書において規定されていたことから逸脱したものです。だからこそ主イエスのように自分たちの語る律法を否定する者を、神と受け入れることは出来なかったのです。
 つまり彼らにとって神さまとは、何も語らず、自分たちの行動をすべて受け入れてくれれば良かったのです。言い換えれば、自分が神であり、自分が律法なのです。

Ⅲ.目を癒された男の両親
 そうした中、彼らは男の両親に証言を求めます。ユダヤ人たちは、ユダヤ人である両親が、自分たちの正当性を証言してくれるとの期待していたのです。そして両親も、ユダヤ人として彼らの求めに答えようとします。両親は、既に語ってきたように、ユダヤ人の会堂から追放されることを恐れていたのです(22)。
 そのため、両親は、自分の息子が盲人であったが目が見えるようになった事実は語りますが、その喜びが誰によってもたらされたのかや、どの様に行われたのかは全く語りません。それを語らないということは、両親にとって、ユダヤ人社会の一員でいることが何よりも重要なことであったことを意味します。
 つまり両親にとっての救いとは、ユダヤ人社会の中にあることによって成り立つのであり、その外には考えられないのです。つまり彼らにとっても、生きて働く主なる神さま、救い主の存在は、ユダヤ人たち同様に、形だけのものとなっており、主なる神さまを畏れ敬う信仰はなく、むしろユダヤ人たちを恐怖として恐れていたのです。

Ⅳ.私たちの信仰
 では、私たちにとって神さまはどの様な存在なのか? 日本の教会は、戦時中、偶像崇拝の罪を犯しました。それは、天皇は神であるか?キリスト者は神社に参拝しないのか?が問われ、迫害されることを恐れて、天皇を神のごとく宮城を拝み、神社は神に非ずと神社に参拝したのです。これは主を忘れ、目の前に迫った恐怖におののいた結果です。
 その当時の状況に置かれれば、致し方がなかったという言葉も語られます。しかし、私たちが本当に恐れなければならないのは、永遠の生命を与えることもでき、また永遠の裁きを行うことも出来る主なる神さまであり、肉体は殺すことが出来ても魂を殺すことの出来ないサタンや周囲の人々ではありません。人々を恐れ、真実を歪めたり、真実を隠して証言を変えることは、生きて働いておられる主なる神さまの存在を受け入れていなからです。人を見るのではなく、神の御前に立ち続けることが、私たちに求められています。
                                         (2010.7.25)


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