【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神から来た方」  ヨハネによる福音書9章24~34節



ヨハネによる福音書9章24~34節

  24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。




Ⅰ.神に栄光を帰する
 日本語聖書は翻訳であり、時として意訳・誤訳もあります。24節、新共同訳は「神の前で正直に答えなさい」と訳します。これはカトリックのフランシスコ会聖書研究所訳を踏襲してます。しかし新改訳聖書では「神に栄光を帰しなさい」と訳し、プロテスタント教会のいずれの訳も同様です。この読み方の違いは、信仰の違いとして表れであり重要なことです。これは「全知全能である主なる神さまが、全てを支配し、全てをご存じであるからこそ、何一つ隠すことが出来ない。だからこそすべてを正直に答えなさい」と語っているのです。つまり、主なる神さまがどの様なお方であるのか、確認しなければなりません。
 神の栄光は、私たちが創り出すことはできません。全知全能であり生きて働く神さまが居られるのです。その方は、御自身で栄光を讃えることが出来るお方です。そして主の栄光は、キリストの御業によって私たちに示されています。だから私たちが神の栄光を覚える時、讃えるではなく、神の栄光を帰するのです。ちょうど太陽の光が月に写り私たちは月が光っているように見るように、神の栄光がすでに私たちに示されているのであり、私たち自身には何もないが、私たちの信仰告白・善き業により、主の栄光が示されるのです。
 「神に栄光を帰する」ことを考える時、ウェストミンスター小教理問1を忘れてはなりません。「人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」。まさに、人間が主なる神さまによって創造され、命が与えられた一番の目的は、私たちが神さまの栄光を見て、それを表し、そして神さまによって生かされていることを喜ぶことにあるのであり、これが私たちの永遠の喜びです(参照:Ⅰコリント11:36)。

Ⅱ.宗教による脅かし
 ユダヤ人は「神に栄光を帰しなさい。わたしたちは、あの者(主イエス)が罪ある人間だと知っているのだ」(24)と主の御前で語ります。彼らにとっての真理・神は、彼らが持っていた律法です。「自分たちは正しい」という前提です。彼らも救いを求めていましたが、本当の意味では生きて働く主なる神さまの御前に立っていなかったのです。主なる神さまを畏れることなく、真の意味での神の栄光を受けていなかったのです。その彼らが「神に栄光を帰しなさい」と語りつつ証言を求めるということは、人間にとって一番弱い部分である救いを人質にとって「自分たちの意に反することを語れば、ただでおかない」との脅しを行っていたのと同じです。宗教的なパワハラ(パワー・ハラスメント)です。
 盲人であった男の両親は、まさに主の御前に生きる以前に、ユダヤ人社会に生きる者として、ユダヤ人たちの脅かしに屈する形で証言を行ったのです。
 こうしたことは歴史において繰り返します。一つの例が、宗教改革が起こる原因となりました免罪符です。当時の教会は、地上の生涯において罪の償いを完全に行うことが出来ないち語り、死者は中間層である煉獄に行くと言われました。そして、死者が完全に救われるには、教会による罪の償いが必要であると唱えたのです。そして免罪符という札を売りつけたのです。ルターが教会の門に95箇条の提題を張り出したのは、まさにこの免罪符の過ちを指摘するためであったのであり、このことがきっかけに宗教改革が始まったのです(1517年10月31日)。また現在でも新興宗教において同様のことが行われています。


Ⅲ.主に栄光を帰する生活
 このようにユダヤ人たちは、「神に栄光を帰する」ように求めつつ、盲人であった男に対して改めて証言を迫ります。つまり彼らの求めていた証言とは、「もし目が癒されたのであれば、神の憐れみであるからこそ、神にのみ栄光を帰さなければならない。イエスという人に神の栄光を帰せてはならない」ということです。この事だけを取り上げると、たしかに神に栄光を帰する時、私たちは人間にそれと同等の栄光を讃えることはあってはなりません。教会において人を賞賛する時には注意しなければならないのであり、偶像化してしまうからです。しかしここで問題となっているのは、「あの方」と呼ばれ続けている主イエスが、どの様な御業を行われたのか、そしてその御業を行う力はどこから来ているのかを、ユダヤ人たちは確認しなければならなかったのです。しかし彼らは何もすることなく、「あの者がある人間だと知っている」と決めつけたのです。そこが問題です。
 そうした中、主の御業に与り、主イエスによって目を癒していただいた男は、ユダヤ人たちの脅かしに屈することはなく、真実を告白致します(25)。彼は全知全能である主なる神さまの御前に立ち、主の御前に遜り、自らのありのままを包み隠さず告白します。これこそが、神に栄光を帰するキリスト者の姿です。彼は、ユダヤ人の前で「あの方は預言者です」(17)と語り、さらに「あの者が罪ある人間だ」と語っているユダヤ人の前で「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」と、ユダヤ人を臆することなく告白するのです。彼が行った証言は、神によってなされた御業を、少しも減じることなく告白しているのであって、神の御業を行った方こそが、「あの方である」と語っているのです。そればかりか、彼は主イエスへの信仰を告白致します(30~33)。つまり、彼は、自らの目を癒して下さった方が、神から来られた方であり、神そのものであることを告白したのです。
 まさにキリスト者である私たちの日々の歩みは、すべてが主なる神さまの御支配の下、主の恵みによって司られています。だからこそ私たちに日々与えられる喜び、恵み、そのすべては、主なる神さまから与えられた恵みです。主の御前に生きることは、こうして与えられる神さまからの恵みが、神さまから与えられていることをはっきり自覚し、感謝し、告白・証言することです。これこそが、神の御前に生きるキリスト者の姿であり、神に栄光を帰する姿です。

                                         (2010.8.1)


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