【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「悪霊に取りつかれるとは?」  ヨハネによる福音書10章11~21節



ヨハネによる福音書10章11~21節

  11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
  19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」




Ⅰ.神の側の予定と招き
 主イエスは、御自身が羊飼いであり、私たちキリスト者が羊であるとお語り下さいます。そして主イエスは、「わたしは自分の羊を知っている」(14)とお語りになります。つまり、神の国に招かれているすべてのキリスト者ひとり一人を、主はご存じであります。それは、すでに神さまを信じて神の民とされている者だけではなく、これから神の民とされていく人々も含まれているのです(16)。
 主なる神さまは、永遠のご計画において、すべての神の民を選んでおられ、知っておられます。主イエスは神の御言葉である聖書と教会をとおして、そのすべての神の民を、神の国である天国にお招きくださるのです。そしてこの福音の中心は、キリストが「わたしは羊のために命を捨てる」(15)と語りになるように、主イエスが私たちの罪を贖うために十字架において死を遂げてくださったことです。キリストの十字架の贖いが私たちに適用されることにより、私たちキリスト者は、主の恵みの内に罪が赦され、義とされ、神の子とされ、聖にされ続けているのです。つまり救いとは主なる神さまの一方的な恵みです。

Ⅱ.人間の側の応答
 一方、「羊もわたしを知っている」のです(14)。主なる神さまによる救いの御業が私たちに一方的なものとして与えられるのは、何か強制的に、首根っこを引っ張られるように教会に連れてこられ、強制的に礼拝に出るようにされている操り人形のように思われることもありますが、そうではないのです。「羊もわたしである主イエスを知っており、主イエスの声を聞き分ける」と語られるとおり、主なる神さまの御業が私たちに示された時、同時に聖霊が私たちに働き、私たちの心に変化が生じるのです。そして、主がお語りになる御言葉に聞く者となり、主を受け入れるのです。その結果、自らの罪に生きる者ではなく、主の御言葉に聞き、御言葉に生きる者となり、善き業が生じてくるのです。
 パウロは使徒16:31において「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と語ります。私たちが主イエスを信じることが出来るのは、すでにそこに聖霊が働き、主イエスの十字架の贖いがすでになし遂げられているからです。
 私たちはこの後聖餐式に与りますが、聖餐に与るに際し、私たちは自らの信仰を吟味し、神の民として生きていく上で、自らを省みなければならないのです。しかし信仰生活がちゃんとしていないから怒られているのではありません。私たちの罪を主はすべてご存じの上で、あなたのその罪を主イエスが十字架において贖った、あなたの罪は赦されたと宣言してくださっています。だからこそ、聖餐式に招かれることにより、私たちは自らの信仰を吟味し、今ある罪も赦された救いの感謝と喜びに導かれるのであり、主に仕えていく者としての献身を新たにさせられるのです。

Ⅲ.悪霊に取りつかれている?
 しかし現実には、主によって招かれることのない人たちがいることも否定出来ません。日本のようにキリスト者の人口が少ない場所にあっては、家族のこと、友人のことなどを思い、主の招きにない人たちのことがよく話題に上ります。しかし私たちは自らの在り所を確認しなければなりません。主なる神さまが創造主であり、私たち人間は主の被造物であるということを。そして人は主の御前に罪人であり、このままの状態では滅び行く者であったのです。そうした状態の中にあって、主は、主の御言葉に聞き従い、信仰を告白する者をキリストの十字架の御業による罪の赦しと救いに引き入れてくださったのです。すでに信仰を告白した者、あるいはこれから信仰を告白する者は、すでに救われているのであり、滅びの恐怖におびえることは決してないのです。しかし、結果として主の裁きに遭う人々は、主イエスを拒絶し、主イエスの十字架の御業を否定するのです。従って、彼らは自分自身の行いによって、主の御前に立たされ、主の裁きに遭うのです(19-21)。
 つまり、主イエスが御業を行われ、御言葉が語られる時、それを受け入れる者と、拒絶する者とに別れるのです。ここに決断が求められるのです。もちろん、決断を下し、主を信じるまでに長い期間かかる人もいます。今まで生きてきた価値観との挌闘があるからです。彼らは、主イエスの御業に触れ、主イエスの御言葉に聞いた時、イエスを神とすることに対して、最終的な拒絶をすることはないのです(21)。しかし主の裁きにさらされる者たちは、最終的に主イエスを拒絶するのです(20)。まさに、主イエスの御業が示され、主の御言葉が語られつつも、それを拒絶することによって、主の裁きはもたらされるのです。
 今、私たちには、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救い、永遠の生命が示されています。主から与えられた一方的な恵みと祝福を否定する者ではなく、素直に受け入れ、信じる者であっていただきたいものです。

                                         (2010.9.5)


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