【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「御父の業を行うイエス」  ヨハネによる福音書10章31~39節



ヨハネによる福音書10章31~39節

  31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。



Ⅰ.ユダヤ人の殺意
 主イエスの前に立っているユダヤ人たちは、主イエスを石で打ち殺そうとして、握り拳くらいの大きさの石を手に持っております。彼らの主イエスに対する憎しみは、一過性のものではなく、抑えることの出来ない憎しみであったのです(8:59参照)。この主イエスに対する憎しみの思いが、主イエスを逮捕し十字架に架ける時まで続いていくのです。
 彼らの殺意は、次の主イエスの言葉に集約出来ます(33)。「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。この時、主イエスの行いは吟味されていません。現在においても、「私がメシアだ。キリストの甦りである」と語る人がいます。私たちキリスト教会は、そういう人たちに対して、彼はキリストではなく、偽キリストであり、異端者であるとの烙印を押します。それは再臨のキリストが誰にでもわかる形で来られるのであり、キリストが再臨することにより、ただちに最後の審判と終末の完成があるのであり、それらのしるしを、異端者には見つけることが出来ないからであります。ユダヤ人たちの目には、私たちが異端者を見るような目で、主イエスの姿が映っていたのです。

Ⅱ.神の御子イエス・キリスト
 つまりユダヤ人たちは、主イエスが自ら神となったと語ったと言っているのですが、主イエス御自身は、ずっと私は神の子であると語られます(36)。つまりイエスという人間が神になったのではなく、元々神の子の状態に在り続けている御子が人となられたのです。
 また主イエスは、相前後しますが詩編82編を引用して語られます(34~35)。詩編にある「神々」(1・6)を主イエスは問題とされます。彼らは、イスラエルの民の中にあって、神様からの召しが与えられた裁判人でした。人を裁くことは、本来、神に属することです(参照:申命1:17)。なぜならば、人は皆、罪人であり、他人を裁くことなど出来ないからです。主が裁判官をお立て下さり、裁く権能をお与え下さったのです。そのことにより、神は教会の秩序、社会の秩序を保つことを求めておられるのです。このように旧約聖書では、主が召した人々や天使たちに対して「神々」と語るのです。
 ましてや父なる神によって遣わされた救い主、主イエスだからこそ、「自分は神である」、「自分は神の子だ」と言ったとしても、神を冒涜した言葉とはならないのです。
 そして主イエスは35「聖書が廃れることはありえない」とまで語られます。旧約聖書が裁き人、主から遣わされた人々のことを、「神々」と語っているのと同様に、主から遣わされた神の子である主イエスの言葉にも耳を傾けることが、ユダヤ人に対して、そして私たちに対して求められているのです。

Ⅲ.救い主を見極める信仰の養い
 主の御前に立たされた私たちは、神から遣わされた天使、神の使い、預言者、主がお立て下さった説教者の言葉を聞くことが求められます。この時、人が語りますが、主の御霊が共に働き、人々の心に神の御言葉が伝えられ、私たちは罪の悔い改めが求められ、信仰が起こされていくのです。だからこそ、ここでユダヤ人たちが、主イエスのことを神の子と信じることがなくても、神から遣わされた者として受け入れ、語られた御言葉に聞く時、自らの姿が露わにされ、罪の悔い改めと信仰の告白へと促されたはずです。しかし現実には、ユダヤ人たちは主イエスを受け入れることが出来なかったのです。
 彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない」(33)と語っていました。しかし主イエスは、「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(37~38)とお語りになります。つまり、主イエスの行われている奇跡・病人の癒しの御業は、一般の人間が行うことの出来ない御力があり、ここに父なる神さまの御業が示されているのです。そうであれば、父なる神さまが、主イエスと共にあること、主イエスが父なる神さまの内にいることを、あなたたちは知ることになり、悟ることが出来るのではないかと、主イエスは語られているのです。
 私たちは、主イエスが再臨される時、偽キリストと区別しなければなりません。インチキではない真の神の御力であること、自己の賞賛のための業ではないこと、旧約聖書から語られている主の御言葉と一貫していることなど、私たちは見抜かなければなりません。そのため私たちは、聖書に示されている主イエス・キリストこそが、私たちに与えられた救い主であることを受け入れ、さらに、再び来られるキリストを見極めることが求められています。そのため私たちは、何が主なる神さまの力ある御業であり、真理であるかを、常に認識することが出来るように、常に御言葉の養いを受けつつ、霊的なアンテナを立てておくことが求められているのです。

                                         (2010.9.19)


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