【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスを信じる人々」  ヨハネによる福音書10章40~42節



ヨハネによる福音書10章40~42節

  40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。



序.
 私たちは、日々の生活を送っておりますが、多忙さの故にキリスト者としての原点を見失うことがあります。それは多忙な時だけではなく、試練・苦しみ・悲しみ・虐げなどの時も、同様に時間の流れに組み込まれてしまうのではないでしょうか。

Ⅰ.主イエスの目的:十字架と神の民の復活
 主イエスが神の御子でありながら人としてお生まれ下さった最大の目的は、御自身が私たち罪人に代わり十字架に架かり、苦しみと死を遂げることでした。すでに主イエスは、御自身が神の御子であることを人々に示し、十字架に架かられる準備も整ったように思います。しかし主イエスには成し遂げなければならない御業が残されていました。
 キリストは、神の御子として、御自身が十字架の死から三日目の朝に復活を遂げられるように、キリストが再臨した時に、信じる私たちもまた復活することを約束して下さっています。それは主イエスが命を司られるお方であり、肉体の死を超えて働く御力を持っておられるお方であるからです。そして今までにも主イエスは、人の命をも司るお方であることを、病人に癒しによってお示し下さいました。しかしさらに主イエスは、既に死を遂げた者を復活させる御業を通して、御自身の御力をお示し下さるのです(11章)。

Ⅱ.2つのベタニア
 つまりヨハネによる福音書において、主イエス御自身が十字架にお架かりになることと合わせて、主イエスがラザロを復活させる御業は非常に重要であります。主イエスは、この重要な御業を行うに先立ち、洗礼者ヨハネによって洗礼を授かった場所、つまりヨルダン川の向こう側(東側)に行かれたのです(巻末地図6参照)。1:28では、ヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であったと記されています。
 11:1には、ラザロがベタニアの出身であると記されています。これはエルサレムの近郊にある町ベタニアであり、ペレアのベタニアとは別の町であり、主イエスがエルサレムに上られている時に宿泊のために用いられたエルサレムから3km程に位置しています。
 「貧困の家・不幸の家」と訳されるベタニアからベタニアへ主イエスが行かれたことは、聖書が何か意図を込めて語っていると読み取ることも出来るかと思います。まさに主イエスが、貧困の民、苦しみの民を助け出す救い主であることを物語っているのです。

Ⅲ.御業を確認される主イエス
 私たちは、主イエスがヨハネから最初に洗礼を授かったヨルダン川の東側に行かれたことに着目しなければなりません。つまり、主イエスはユダヤ人から逃げるようにしてエルサレムの町から出て行き、その足でラザロの所に行き、奇跡を行ったのではありません。
 現在に生きる私たちは、効率よく仕事することが求められます。インターネットを駆使して、多くの情報を手に入れ、必要な情報を用いて仕事を行っていくのです。しかし、私たちは、日々仕事に追われている時、苦難・艱難・試練にある時、病気で苦しんでいる時、キリスト者として、キリストの十字架による罪の赦しと救いが与えられた喜びにあることを忘れ、目の前に与えられたことを処理することしか出来なくなるのです。こうした時に私たちが求められることが、信仰の原点である御言葉に立ち帰ることです。だからこそ、一週に一度、神さまの御前に集められ礼拝に集うこと、それに一日に一度、神の御前に頭を垂れ、御言葉に聞く静思の時を持つことが求められるのです。礼拝に集うことは、その日一日、あるいは礼拝に集っている間は、日々の働きから離れ、キリストによる罪の赦しと救いにあることを確認することが出来るのです。そうであれば、忙しくても、主の民として主を証しするため、神の国を建て上げるために主によって遣わされていることを覚えつつ、その働きに就くことが出来るのです。
 まさに主イエスが、エルサレムから離れ、ヨルダン川の東側に行かれたことは、これから主の大切な働きを行われるにあたって、心を整え、父なる神さまの御前にその働きをまっとうするための備えを行うために必要なことであったのです。

Ⅳ.主イエスを信じる人々
 また私たちは、主イエスが改めてベタニアに現れたことを、洗礼者ヨハネが語られた言葉から確認することが出来るのです。ヨハネ福音書1章から確認します(1:27,29-30)。
 主イエスが再びベタニアに現れた時、人々は主イエスを信じます。洗礼者ヨハネが語った言葉が真実であり、主イエスが御言葉と御業において神の御子であることを示されたからです。エルサレムにおいてユダヤ人は信じることが出来なかった主イエスを、「貧困の家・不幸の家」であるベタニアの民は福音を受け入れ、神の祝福された民とされたのです。
 主イエス・キリストは、私たちの罪を赦し、救うために十字架にお架かり下さったのです。しかしその救いとは、苦しむ者を助け出し、肉体の死にある者に命を与え、神の国における永遠の喜びと祝福に満たして下さることであるのです。

                                         (2010.9.26)


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