【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「ラザロの死を知るイエス」  ヨハネによる福音書11章9~16節



ヨハネによる福音書11章9~16節

  9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。



Ⅰ.人の死生観
 今日は、主イエスと弟子たちとの語り合いを中心に、人の持っている死生観と、主イエスがお語り下さる生と死に関する教えとの違いを、一緒に考えていきたいと願っています。
 私たちキリスト者は、今の人生を粗末に考えることはしませんが、今の人生が全てであるとも考えません。しかし神様を知らない人たちの中では、今の生がすべてであるとの考え方に立つ人が多いのではないかと思います。主イエスの弟子たちも同じ考えです。ラザロが病気であるあることを聞いた主イエスはラザロのためにエルサレムに行くことを弟子たちに伝えました。この時、弟子たちは主イエスに答えます。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8)。イスラエルの民は主イエスを石で打ち殺そうと狙っていました(10:31)。その思いは日に日に強まっており、主イエスは彼らの手を逃れて、去って来られたのです(10:39)。ラザロの町ベタニアは、エルサレムから約3kmの場所です。つまり、弟子たちの思いは、イエスがエルサレムに行くことにより、殺され、すべてが終わってしまうと思っているのです。

Ⅱ.主イエス・キリストの語る生
 主イエスの9-10節のお答えは理解に苦しみます。「昼間に歩いていれば、捕まることはない。そして夜に出歩いた時に捕まるのだ」。このように解釈することも出来るかもしれません。現に主イエスは、最後の晩餐の後、ゲツセマネの祈りの折に逮捕されました。しかしここでは、主イエスは逮捕の話しをされているのではありません。主イエスは躓きの話しを行っているのです。主イエスの語る「つまづく」とは、信仰に関する躓きです。
 主イエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11)と語られる時、主イエスは、肉体の死がすべての終わりになることはないことを語っておられるのです(参照:14-15節)。主イエス・キリストは、人の命を司り、復活させる力を持っておられるのです。つまり、人は肉体の死を超えて生き続ける魂があり、信じることによって永遠の生命が約束されているのです。
 その上で、主イエスは肉体の死よりも恐ろしいこととして、躓きを語っておられます。つまり躓きとは、世の光であるキリストから離れることです。昼間とは、主イエスを信じ、主イエスの御言葉に聞き従うこと、永遠の生命に与ることであり、夜歩くとは、主イエスから離れ、自分勝手に生きることです。躓きの結果は、永遠の裁きを享受しなければなりません。主イエスを信じ、昼歩いている限り、私たちは滅びにいたることはありません。
 使徒ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と福音書を語り始め、主イエス・キリストこそが、世の光、救い主であり、主イエス・キリストに繋がり信じることが、救いであり永遠の生命を手に入れることであることを語っています。

Ⅲ.キリスト者としての歩み
 トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16)と語ります。トマスは、ヨハネ福音書において重要な局面で登場します。最初は14章1~6節です。主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」という重要な真理がトマスの問いかけにより語られました。
 次に、復活の主イエスが他の弟子たちに現れつつ、トマスの前には現れていない時のことが20:24~29で記されています。ここでイエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」との真理が示されます。
 では「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)はどうか? トマスは復活の主イエスに出会うまで、真理を理解していませんでした。ですから、ここでトマスは何も理解していませんでした。しかしヨハネは、このトマスの言葉に真理の言葉を込めて語っています。これは集団自決の勧めではありません。しかし肉体の死を迎えても与え続けられる主からの恵みを、トマスは感じ取っているのです。現在の生に主からの恵みと祝福を覚えつつも、これで終わりではない祝福された永遠の生命があるとの希望があります。だからこそ私たちは、どこまでもキリストと共に繋がることが求められるのです。
 そして、どこまでもキリストと共に在り続けることにより、時としては迫害・殉教も覚悟しなければならないのです。迫害されることは、闇の中を歩んでいるようでありますが、主による恵みに満たされ、天国の永遠の祝福という光り輝く道であることでもあります。

                                         (2010.10.17)


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