【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスを狙うユダヤ人」  ヨハネによる福音書11章54~57節



ヨハネによる福音書11章54~57節

  54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。



序.
 ヨハネ福音書は、今日与えられました御言葉から新たな展開を迎えます。今まで主イエスは主の御業を行われ御自身が神の御子・救い主であることを宣べ伝えていました。そして今日の所から主イエスは十字架への道へと進んで行かれるのです。

Ⅰ.ユダヤ人
 一つの事件があると加害者と被害者があり、加害者には加害者の言い分があり、被害者には痛みが伴います。裁判となれば、それぞれを客観的に評価して、判決が下されていくこととなります。主イエスの十字架を見ていく時にも、同様のことを考えていかなければなりません。つまり一方は、神の御子である主イエスが十字架に架けられることの意味です。もう一方は、主イエスを十字架に架けたユダヤ人の罪です。
 ユダヤ人たちは、前々から主イエスを殺そうと企んでいました(ヨハネ5:18、7:1、8:40、10:31)。さらに11:53でも語ります。しかし今回は今までとは異なります。今まではユダヤ人一人ひとり、個人としてイエスのことを憎み、殺そうと思っていましたが、会議などで決議したものではありませんでした。しかし53節は、最高法院(47)における決議です。もちろん、会議においてすべてのユダヤ人が一致して賛成していたのではありません。事実、主イエスが十字架において死を遂げられた時、遺体を引き取り、墓に葬ったのは、最高法院の議員の一人であったヨセフであったことが記されています(ルカ23:50~53)。
 しかし信仰上のことを取り扱う会議において、罪のない者を十字架に架ける決議を行うことは重大な罪です。私たちも教会会議を行います。私たち改革派教会であり、牧師と長老によって行われます小会で決議していきます。会員の皆様は会員総会において、牧師・長老を選出することにおいて会議に参加するのです。主によって立てられた牧師・長老は、会議において主の御前に立ち、自らの判断ではなく、主がこの教会において何を求めておられるかを主に委ねながら決議を行っていくのです。しかし、牧師・長老であっても、罪赦された罪人であり、誤った決議を行うこともあります。教会の歴史はそれを物語っています。戦時中の日本の教会も、戦争に協力し、周辺諸国の人々を苦しめ、偶像崇拝をした罪があります。ウェストミンスター信仰告白30:4 使徒時代以来のすべての総会議あるいは大会議は、全体的なものであれ、特定のものであれ、誤りを犯し得るし、実際多くの会議が誤りを犯してきた。それゆえそれらは信仰や実践の規範とされてはならない。むしろその両者における助けとして用いられるべきである。
 私たちがここで求められる第一のことは、決議を行うにあたって主の御前に遜り、何が正しいか御言葉をもって判断することです。周囲の人々の考えに流されてはいけません。第二に、罪のないお方を殺すことを求めた者はもちろん、大勢に流されてしまう者、さらには声を出すことすら出来ない者にもその責任はあるのです。そして私たちもまた、彼らと同じ罪を担っているのです。罪の刑罰は死です。だからこそ私たちは、常に主の御前に立ち、自らの行動、言葉、心を吟味しなければなりません。

Ⅱ.神の小羊イエス・キリスト
 一方、十字架に架かろうとされている主イエスはどうか? 主イエスはユダヤ人から逃げ回っているように読むことも出来るかと思います(54)。しかし主イエスは逃げ回られたのではなく、十字架に架けられる時は定められていたのです。この時は過越祭の六日前です(12:1)。キリストは、私たちの罪を贖い、死を遂げるために、神であるお方が人としてお生まれになったのです。キリストが死を遂げる時は過越祭のです。過越祭とは、旧約の時代、エジプトに奴隷とされていたイスラエルを、主なる神さまがモーセを立てて救い出して下さった時、定められた祭りです。
 過越祭では、毎年、生け贄を献げます。それはイスラエルが神の裁きから逃れたことを単に覚えるだけでなく、イスラエルの民は、自分たちもまた神の救いにあることを確認したのです。しかしそれはあくまで約束であり、救いの成就は神の御子が生け贄をして献げられることを待たなければならなかったのです。だからこそ旧約のイスラエルの民は、約束のメシアを待ち望んでいたのです。そしてイエス・キリストが献げられることにより、救いは完成するのです。キリストの贖いは、この十字架一回限りであり、旧約に生きたイスラエル人も、この当時の弟子たちも、そして今に生きる私たちも、このキリストの十字架によって救いが完成するのです。
 本当ならば私たちが十字架を背負って死ななければならなかった所を、主イエス・キリストが私たちの十字架を身代わりに背負って下さったのです。そのことにより、主イエスを救い主として信じる者の罪は贖われ、神との和解が与えられ、神の子として、永遠の生命が与えられたのです。
 そしてイエス・キリストを真の神、真の救い主と信じる者は、キリストが十字架の死から三日目の朝に、死に打ち勝ち復活を遂げてくださったように、復活の命が与えられるのです。キリストが再臨される時まで待たなければなりません。しかし、主によって与えられる救いは、復活の生命と共に、神の国における永遠の祝福された生命です。


                                         (2011.1.9)


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