【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「主イエスの模範」  ヨハネによる福音書13章12~20節



ヨハネによる福音書13章21~30節

  12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」



Ⅰ.新約の教会と洗足
 今お読みしました御言葉は、13章1節から始まります主イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の出来事の続きです。主イエスは「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(15)と語られていることから、教会では洗足木曜日(洗足式)として足を洗うことを行ってきたのです。現在でもローマ・カトリック教会や一部のプロテスタント教会で洗足式を行っているようであります。
 しかし私たちの教会では洗足式は行いません。このことは新約聖書の理解によります。新約聖書で他に洗足に関して記されている箇所は一箇所だけです(テモテ一5:10)。ここで洗足を行うのはやもめの働きだと語られています。やもめは教会のひとつの役職であり、使徒言行録6章では、やもめは教会から日々の給食を受けている困窮者として語られます。しかし彼女たちは次第に教会内部で重んじられ、務めにつくようになり、女性執事と同じような務めであったと考えられるのです。なぜ足を洗うことが、やもめの仕事になったのかについてはよく分かりません。足を洗うことは、世間では奴隷が行うことで最も疎まれていたのですが、教会においては尊ばれる奉仕でした。そして次第に、やもめに託される貴い仕事となっていったのです。すなわち、主のなしたもうた手本を引き継ぐのが彼女たちの勤めとなったのです。すなわち足を洗うことは、主イエスに教えられ、教会が守らなければならない礼典のように重視されることはなく、ディアコニア、つまり教会の愛の業の一つとして受け継がれてきたのです。そのため、生活文化がまったく変化した現在では、愛の業として足を洗うことは、必要なくなり、現実的なディアコニアとしての働きが重視されていると言ってよいかと思います。

Ⅱ.主イエスの愛の業
 次に主イエスが語られた言葉に聞きます。主イエスは「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」(13)とお語りになります。私たちは主イエスが行われたことを本当に理解しているのか、立ち止まって考えなければなりません。主イエスの御業を私たちが理解しようとする時、私たちは主イエスによって招かれている救いを理解し、受け入れることが求められているのであり、信仰に関わる問題と受け取らなければなりません。
 その上で主イエスは13~14をお語りになります。ここで求められているのは、「仕える」・「謙遜になる」ことです。先生であり、主であるイエスさまが、弟子たちに仕えられ、本来奴隷が行うことを行われたのです。遜りです。主イエスの遜りは、御子である方が授肉されたこと、奴隷の働きを行われたこと、そして私たちを救うために十字架の死まで担って下さったことにあります(参照:フィリピ2:6-8)。
 ですから主イエスが行われた御業は、神の愛に基づきます。私たちは、日々の生活で主の御前に罪を犯しています。しかし主イエスは私たちを救うために十字架にお架かり下さり、私たちの罪を贖って下さったのです。私たちは聖餐式で、キリストの贖いによる救いを確認します。だからこそ私たちは主の御前に遜り、罪を悔い改めることが求められるのです。だからこそ私たちはここで、キリストの愛に注目しなければならないのであり、足を洗うことや謙遜に仕えるといった業に注目していてはなりません。

Ⅲ.徳(道徳)に留めるな!
 日本におけるキリスト教会の宣教の歴史を考える時、道徳的なこと、つまり徳を立てることにより、人々に受け入れられていっていた要素があるかと思います。そのため、日曜学校が盛んであった時代は、親が道徳教育を受けさせる一環で教会に行き、その道徳性を教えて頂いていたと言っても過言ではありません。今日の御言葉を解釈するにあたっても、「上の立場にある人や、有能な人が謙遜を実行すると、その人の名声はさらに高まり、信用は増し加わり、この世で成功者となるのだ。謙遜は日常生活における徳の延長である。その延長を修練を積んで達成し、誉れを高めようと努めることは良いことだ」、この様に教えられることもあったのではないでしょうか。
 教会に、徳・清さというイメージが伴うことは、一概に間違いであるとは言い切れませんが、信仰の本質であってはなりません。道徳的なことが中心となりますと、①律法主義化、②信仰の個人化が生じてくるのです。つまり愛のない行いが求められ、行えない人に対する裁きが行われ、また謙遜・徳・修練と語ると、自分自身のために行うこととして捉えられ、信仰が個人化してしまうのです。
 私たちは、キリストの愛に倣うべきです。キリストの模範は、謙遜によって教えられ、神の人に対する愛が洗足そして十字架として表されているのです。私たちは、神に愛されて罪赦され、神の子とされているのです。そして神に愛されている者として、神を愛し、神を礼拝する民とされているのです。そして主は、神を愛するように、隣人を愛することを求めておられます。それが現在に生きるキリスト教会としては、愛の業・ディアコニアとして執事的な働きとなります。愛の業は執事の役職にある人たちだけが行うのではなく、主によって救われ、神によって愛されている私たちひとり一人が、主に仕え、人々に仕えることが求められているのです。主イエスは、その模範を示して下さったのです。

                                     (2011.5.1)


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