【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「心を騒がせる」  ヨハネによる福音書13章21~30節



ヨハネによる福音書13章21~30節

  21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。



序.心を騒がせている私たち
 説教題を「心を騒がせる」といたしました。3月11日の大地震以降、日本中の人々が心を騒がせているのではないでしょうか。被災者・被害に対する心の痛み、放射能による目に見えない恐怖、さらにはそこから来る自分自身の無力さ・・・。こうした思いを、日本中の人々、いや世界中の人々が持っているかと思います。

Ⅰ.心騒ぐ主イエス
 今日与えられた御言葉では、主イエスお一人が心を騒がせておられます。ここの所は、別の日本語訳聖書では、「霊の激動を感じ」(新改訳)、「霊がかき乱されて」(岩波訳)、「心に激しい動揺をおぼえて」(柳生訳)、「心が張り裂ける思いで」(フランシスコ会訳)と訳されています。これらの訳をとおして、主イエスの心を理解して頂けるかと思います。主イエスは、この日の夜のうちに逮捕され、十字架に架けられることを知っておられます。そうした中で持っておられる心の騒ぎ、霊の激動です。
 先生であり、主である方がただならぬ思いを持っておられるのです。弟子たちは、意識して主イエスを見ておれば、この感情を理解することが出来たのではないかと思います。しかし「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせたのです」(22)。このギャップを、私たちは心に留めなければなりません。
 主イエスは、何についてそれ程、心を騒がせておられたのでしょうか。御自身が十字架に架けられ苦しむこと、死を遂げなければならないことか(参照:12:27)。ここでの主イエスの憤りは、弟子の一人が主イエス御自身を裏切ることに対してです(13:21)。

Ⅱ.犯人捜しを行う弟子たち
 主イエスの隣には、弟子たちの一人でイエスの愛しておられた者が食事の席に着いていました(23)。この弟子については、ヨハネ福音書では19:26、20:2、21:7、20にも登場します。ヨハネは彼について名前を記しませんが、福音書記者であるヨハネ自身のことであるとの理解が一般的です。ヨハネは兄弟ヤコブと、ペトロとその兄弟アンデレと共に主イエスの弟子となったのであり、ペトロとも親しい間であったのです。
 弟子たちは主イエスの憤りの意味を理解することなく、言葉尻から主イエスの語られた裏切り者としての犯人捜しを始めます。最初にペトロが犯人捜しを始めた時、主イエスの愛する弟子であるヨハネは、ペトロからの合図を受けて、主イエスに対して「主よ、それはだれのことですか」と尋ねます。弟子たちが犯人捜しを始めたのは、誰かを突き詰めることにより、イエスさまが逮捕されることを阻止しようとする意志があったからです。弟子たちは、主イエスが逮捕されようとする時、剣において大祭司の手下に打ちかかり、その右の耳を切り落としたのであり(ルカ22:49-50)、この時も弟子たちは犯人捜しを始め、、主イエスを守ろうとしていたのではないでしょうか。
 このように弟子たちは殺気立っている中、心が騒いでいた主イエスは、逆に冷静に弟子たちに答えられます。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」。主イエスは弟子の問いかけに対して答えられたのです。しかし、殺気立った弟子たちにはユダが行動を起こしても、主イエスの語られた者であることを受け入れることは出来ませんでした。目で見て、耳で聞いたとしても、そこに聖霊が働かなければ、主の真理を知ることは出来ず、閉ざされたままなのです。

Ⅲ.滅び行く者に心騒がせる主イエス
 主イエスは、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った(26-27)。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった(30)。過越の食事を取っていたのであり、夜であることは、改めて記す必要はありません。しかしヨハネは夜であったと記します。主イエスは光として生まれ下さいました。命は人間を照らす光であった(1:4)。それとは対照的に、ユダは光の前に立ちながら、サタンに渡され、夜の暗闇に消えて行ったのです。
 つまり、主イエスが弟子たちの問いかけの答えとしてパン切れを浸してユダに与えることは、同時にユダが裏切り、サタンに仕える者として行動を開始するスイッチが入った時でもありました。主イエス御自身は、このことを知っておられたのです。弟子の中の一人であるユダがサタンに売られ、罪を犯すのです。だからこそ、主イエスは心を騒がせ、霊が掻き立てられる思いにあったのであり、これが主イエスの愛です。
 そして主イエスの愛は、現在に生きる私たちにも示されています。この大震災において一番心を騒がせておられるのは、主イエス御自身です。主の御前に集められていない多くの魂が失われていくのです。だからこそ私たちは今、主による救いに入れられることない人々がここにあり、ここに主イエスの心の痛みがあることを覚えなければなりません。


                                     (2011.5.8)


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