【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「道・命・心理」  ヨハネによる福音書14章4~7節



ヨハネによる福音書14章4~7節

  4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 :5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」



序.
 私たちは旅行に行く時、目的地・費用・交通手段・時間などを確認します。そうすることにより、安心することができます。信仰についても同じことが言えるのです。

Ⅰ.神の国に繋がる道であるキリスト
 さて、主イエスが逮捕と十字架の死と弟子たちから離れていくことを語られた時、弟子たちは動揺します。今までは主イエスという導き手がいたために、安心して日々過ごすことが出来たのですが、安心の拠り所が失うからです。
 そしてトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができましょうか」と語ります。主イエスが十字架から復活した時、他の弟子たちが復活の主イエスに出会い喜んでいる中、トマスはひとり「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、・・わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と語ります。トマスは、何事においても慎重です。トマスにとって頼ることが出来るものは自分の目だけです。神さまを知らない人たちからすれば、咎められることのない姿です。しかしキリストの十字架の恵みに生きるキリスト者としては、自らを主なる神さまに受け渡し、信仰に生きる姿がまったくない、この世的な姿を露わにしているのです。
 神さまを信じるとは、神さまがお示し下さっている救いを受け入れ、神さまにすべてを委ねることです。聖書は、信じることのゴールは救い、神の国における永遠の生命であることをお示し下さっています。そして主イエスは、この神の国である父の家に、あなたがたのために場所を用意しに行くとお語りになられたのです。私たちにとって、ゴールは、はっきりとしています。しかし、信じることが出来ない人が多いのです。どの様にすれば、このゴールである神の国に行くことが出来るか分からないからであり、本当に神の国があるのか疑問に思うからです。まがいものが多く存在し、希望が裏切りに変わるからです。

 しかし主イエスは、「わたしは道である」とお語りになります。父のもとへ行く道です。つまり主イエスを信じ、主イエスの御言葉に聞き従うことにより、天国の扉は開かれます。
 また主イエスは、「わたしは真理である」ともお語りになります。つまり神の国に導いて下さる道案内である主イエス御自身が、真理そのものです。
 そして主イエスは、「わたしは命である」とお語りになります。主イエスは、この後、十字架に架けられ、死を遂げられます。キリストは死から三日目の朝に復活され、天に上られ、今も私たちのために祈り続けて下さっています。この命は、「かつてある命」であり、「今ある命」であり、「永久にある命」です。だからこそ、主イエスと共に歩むことにより、私たちもまたキリストの命、つまり永遠の生命を得られるのです。
 信仰の父と呼ばれたアブラハムは、主の祝福に入れられるゴールが示され、そのために約束の地がどこにあるのか、どのように行けば良いのかは示されませんでした。しかしアブラハムは、主の言葉に従って旅立ちます(創世記12:1-4)。主なる神さまを信じることは、途中の道がどのようなものであるか分からなくても、その過程もすべてが主によって守られ約束の地に導かれることを信じて、主に委ねて歩むのです。
 一方エジプトにおいて囚われの身であったイスラエルはどうであったか? 主はモーセをお立て下さり、奴隷から救い出し、約束の地に導くことを約束してくださいました。モーセは主を信じ、主から託された御業を行うことにより、エジプトから逃れることができました。しかしイスラエルの民は自分で判断しました。それゆえにイスラエルの民は、40年間、荒れ野をさまようことを余儀なくされたのです。
 神さまを信じ、救いの道を歩むことは、神の国に行くまでの途中の道も、主を信じて、主に委ねるのです。主は旧約聖書の歴史を通して約束を果たし、神さまを信じる民を救いにお与え下さることを、証ししています。だからこそ私たちも、主イエスの御言葉に聞き、信じ、主イエスの御言葉に聞き従うことが求められているのです。

Ⅱ.道・真理・命
 では具体的に、道であり真理であり命である主イエスに従うとはどういうことか?
 主イエスは、盲人の目を癒し目が見えるようにして下さいました。歩けず、寝たきりの人の足を癒し、歩き、働けるようにして下さいました。主イエスの道に従うことは、私たちが自分で歩き、目的地に向かって歩んでいるという自負を捨てることです。自分で歩こうとすれば、自我の故に、横道に逸れてしまいます。つまり、すべてを神さまに明け渡すこと、委ねることです。私たちは毎日の生活をスケジュール管理しています。この時、礼拝の時間、祈祷会の時間、他の集会の時間も、同じような感覚で時間を割いていませんか? 主は私たちに礼拝することを求めておられます(第四戒:出エジプト20:8-11)。すべてを支配し、私たちを救いに導いて下さる主の求め・主の御言葉を第一にしなければなりません。神中心、キリスト中心の生活が求められます。
 真理である主イエスに従うとはどういうことか? 主の真理は、律法(十戒)に示されています。ウェストミンスター小教理問答 問82では、「これらの神の戒めを、だれか完全に守ることができますか」答「堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています」と告白します。罪に汚れている私たちを、真理であるキリストは、真理である父なる神の御座に入れて下さるのです。主への畏れ、遜りと謙虚さが求められているのです。律法に聞き従うことが出来ない私たちが、なおも律法を果たした者として、無罪と宣言されているのです。主の救いに生きることは、私たちの生活のすべてが、私たちのすべての時間が、主の恵みに生きることであり、すべての時間、主の御言葉に聞き従った、主への遜りと畏れをもって歩むことです。
 そして最後に、命である主イエスに従うとはどういうことか? 主イエスを信じて歩む者は、主イエスの持っておられる命に与るのです。そうであれば、どこまでも、主イエスに従っていくのです。このことは、信仰に対する戦い、迫害の時に試されます。この世の権力は、今の時代だけ、一時的です。しかし主なる神さまが持ち、キリストが持っておられる命は永久です。主イエスに従って、神の国への道を歩む時、耐えることのない永遠の生命の約束されています。主イエスの道に従い、主イエスの真理に従い、主イエスの命を信じて、神の国の希望を胸に秘めつつ、歩み続けましょう。

                                     (2011.6.12)

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