【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「父なる神さま」  ヨハネによる福音書14章8~14節



ヨハネによる福音書14章8~14節

  8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」



Ⅰ.主イエスとフィリポ
 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。・・既に父を見ている」とお語りになりました(6-7)。この時フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と語ります。フィリポといえば、主イエスと出会うとすぐに主イエスを信じて、従い、伝道を開始しました(1:43-45)。またギリシア人が主イエスに会いたいと来た時も、すぐに紹介します(12:20-22)。フィリポは、あまり目立つことのない弟子でしたが、主イエスを信じ、忠実に主イエスに従ってきていた弟子です。このフィリポに対して、主イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と語られます(9)。

Ⅱ.教理と信仰
 フィリポが尋ね求めていることは、御父と御子との関係、つまり御父、御子、御霊なる三位一体なる神を知ることです。聖書が語り、主イエスが語り続けてきたことです。御父・御子・御霊は働きは異なりますが、一人の神であり同一です。だからこそ主イエスは、「わたし(御子)を見た者は、父を見たのだ」と語られます。また主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」ともお語りになりました。真理であり、命である主イエスという道をとおることにより、御父の所に行くことが出来るのです。神は一人であり、御父・御子・聖霊の三つの働きをなしておられるのです。そして御子を見ると、御父を知ることが出来るのです。私たちは御子を目で見ることは出来ませんが、聖書と祈りを通して聖霊との交わりの中にあり、御子により御父との交わりにあるのです。
 しかし私たちが三位一体の神を知的に理解しようとすれば混乱をもたらします。知的理解も必要ですが、主イエスの言葉を信じる信仰が問われています。フィリポは主イエスの御言葉に従ってきたのです。知的に(理屈で)理解するのではなく、主がお語りになる御言葉を霊的に受入れ、信じ、宣べ伝えてきたのです。神さまを信じるとは、主イエスの十字架により罪が赦され、神の国に入れられ、永遠の生命の祝福に入れられることを信じることです。これは理屈ではなく、主から与えられる恵みを受け取ることです。
 参照:ウェストミンスター信仰告白 第14章「救いに導く信仰について」第1節
 つまり信仰とは知的な理解によって勝ち取るものではなく、主がお語りになる御言葉を受け入れること、主の御霊が私に語りかけることを受け入れることから始まるのです。

Ⅲ.信仰
 ですから主なる神さまの存在を疑うことがあれば、それは神の御霊に委ねておらず、自らの知的判断で解決を求めようとしているのであり、自らの知識と神のお語りになる神知識との間に矛盾があるからこそ、神さまを疑うのです。神さまは、天地万物を創造され、無限・不変・永遠のお方です(小教理4)。自然を超えて働かれます。そのため私たちが神さまのことを自らの知識においてすべてを理解しようとすることは傲慢なのです。信じるとは、疑わないことです。主を信じ切り、すべてを委ねることです。主は自然を支配され、私たちに生命を支配しておられます。主に不可能はありません。ですから主に祈りを献げる時、「出来るならば・・」、「可能であれば・・」と祈るのは、気がつかないままに、神さまにも不可能なことがあるものとし、神さまの御働きを小さくしています。
 私たちに求められていることは、キリストの十字架により罪が赦され、キリストによって神の御国に導かれているのであり、父なる神さまによる救いを、疑うことなく信じることです。私たちには疑ってしまう弱さ、罪深さがあります。しかし今、主なる神さまを求めて教会において主を礼拝していることは、主がお招き下さっているのであり、主の恵み、主の祝福に入れられているからです。つまりすでに主はあなたを捕らえ、救いへと導いて下さっているのです。疑うことなく、信じる者であることを、主は求めておられるのです。
 主イエスの弟子たち(使徒)には、特別な主からの御業、奇跡を行い、病気を癒す力が与えられます。これらは使徒たちに固有のものです。しかし、私たちは何も出来ないのか?
 私たちは、神さまへの祈りが聞き届けられないのではと疑ってしまいます。半信半疑になります。私も例外ではないです。しかしこれこそが不信仰です。主イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)とお語りになります。私に力はないですが、私の祈りを聞いていて下さる主には力があります。だからこそ、私の祈りにより、不可能と思われることが可能となるのです。フィリポが最初、主イエスに出会った時、信じて、福音宣教を行ったように、私たちも、疑うことなく、主がお語りになる御言葉を受け入れ、主による救いを信じることが求められています。


                                     (2011.6.26)

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