【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「主イエスの掟を守る」  ヨハネによる福音書14章15~21節



ヨハネによる福音書14章15~21節

  15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」


Ⅰ.震災以後に生きる私たちに求められていること
 震災が発生してから4ヶ月。今なお問題は収まることなく、多くの人々が苦しみの中にあります。私たちは何かを行わなければならないけれども出来ない、空回りの状況にあり、それが政治にも表れています。私たちに求められることは行動力であり、それを指揮する指導力です。しかし同時に私たちが闇雲に行動しても、雲をつかむようなものです。
 わたしは震災の直後、自らの生活を見つめ直し、主に対する畏れを忘れ、知らず知らずのうちに己が道を歩んできていたことを悔い改めなければならないことを語りました。私たちは、何でも出来ると思い高ぶり、すべてを支配しておられる主の御前に遜り、主の御前に立つ自らの姿を確認することを忘れていたのです。私たちは、悔い改めつつビジョンを作成し、ビジョンに従って行動していくことが求められています。悔い改めが無い所で、ビジョンを作ろうとしても、小手先、付け焼き刃となるのです。
 ここで私たちが忘れてはならないことは、生きて働く主なる神さまがすべてを支配しておられる真理の霊であることです。自ら考え、思いつきで行動するのではなく、主による解決を求めなければなりません。多くの人々は、今回の震災を自然災害とその後の原子力発電所の事故を人災と考えます。しかしその背後にすべてを支配しておられる主なる神さまを私たちは忘れてはならないのです。つまり神抜きで復興・復旧を考えることと、神さまの御支配の下で復旧・復興を考えることは、まったく異なってくるのです(14:17)。

Ⅱ.一緒にいて下さる聖霊
 私たちは、主イエスを目で見ることも、話しを聞くことも出来ません。しかし主は今なお、私たちを支配しておられ、御子に代わる別の弁護者として聖霊をお与え下さっているのです(14:16)。混沌とした時代にあって、社会は無秩序になっています。こうした時代だからこそ、私たちは自らが何を行うのか、自分勝手な判断で決めつけ行動するのではなく、主の御霊に依り頼み、主からの声に耳を傾けなければならないのです。
 そして聖霊は、永遠に私たちと共にいて下さいます。私たちが生き、私たちが考える時間の範囲は10年、長くても30年程です。しかし主の支配は永遠であり、主は永遠に私たちと共にいて下さるのです。だからこそ、私たちは主の御声に聞かなければならないのです。

Ⅲ.主イエスの愛、主イエスを愛する愛
 さて主イエスは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と語ります(14:15)。闇雲に「主が存在されるから、その御声に聞かなければならない」と、語ったとしても、誰も耳を貸さないことでしょう。しかし主の御支配を信じることは、主の恵みによって命が与えられた者として、主の愛に生きることを意味しています。主による救いを否定する生き方は、滅びの道です。主は御子をこの世にお送り下さり、私たちを救うために、御子を十字架に渡して下さいました。私たちは、主の愛の内に命が与えられ、罪の赦しと救いが与えられ、永遠の生命が定められているのです。つまり、主イエスが「あなたがたは、わたしを愛しているならば」と語られる時、主イエスが私たちを愛して下さり、主イエスの愛が十字架によって明らかにされていることが前提に語られているのです。
 つまり私たちが神の存在を受け入れ、神の愛に生きようとする時、自らの欲のまま、個人主義的な、主の言葉・律法を無視した生き方をすることは出来なくなります。主なる神さまは、天地万物を創造され、今なお聖霊を私たちのためにお送り下さり、すべてを支配しておられます。そして、主は天地創造をされた時、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創世記1:26)とお語りになったのです。神によって管理者とされた人が、神の秩序から離れ、己が道を歩んでいた私たちに、震災と原子力発電所の事故を通して、神の御前に立ち、自らの姿を悔い改め、神の秩序、つまり神の国の完成に向けた歩みをするように、求めておられるのです。自分たちで管理することが出来ないことが明らかになったものを持ち続けて良いのか、主からの切羽詰まった問いかけが、私たちに示されているのです。
 神の秩序、神の支配に生きようとする時、主は私たちに律法(十戒)をお与え下さっています。神の御支配にひれ伏し、行いと言葉と心において主の律法に従おうとする時、私たちは神の国の完成に向けた神の秩序の中に生きることが出来るようにされていくのです。
 マタイ19章には、金持ちの青年の話しが記されています。律法を守るとは、十戒の掟を守ればよいというものではありません。律法主義、つまり律法を守ることにより救いを得ることが出来るとの思いは捨てなければなりません。金持ちの青年に対して、主イエスは語られました。「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(19:21)。つまり、ここで主イエスが問うておられるのは、隣人に対する愛です。
 主イエスはマタイ22章37~40節でこのように語られています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」掟を守ることと、神を愛すること、隣人を愛すること、それらは、別個の問題ではなく、神を愛する心、隣人を愛する心が、掟を守ることの基本になければならないのです(参照:Ⅰコリント13:1~3)。愛とは、己の欲望を捨て、神の秩序、隣人の益を求めて生きることです。それは同時に、隣人に対して罪を批判するのではなく受け入れ、弱さを担うことです。

                                     (2011.7.3)

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