【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「平和を与える主イエス」  ヨハネによる福音書14章25~31節



ヨハネによる福音書14章25~31節

  25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」



Ⅰ.主イエスの語られる「平和」
 「平和」とは、戦争がなくて世が安穏であることです。8月に入りますと、6日(広島の原爆の日)、9日(長崎の原爆の日)、15日(敗戦の日)があり、キリスト教会としても、この月、戦争のない平和な世界を求めていきます。このことは忘れてはなりません。
 しかし主イエスは、単に戦争のない世界のことを語っているのではないのです(27)。主イエスは、この夜、ユダヤ人たちに逮捕され、裁判にかけられ、翌朝には十字架において死を遂げようとされているのです。そして弟子たちは、主イエスが逮捕されることにより、逃げざるを得なくなるのです。通常考える平和とはかけ離れた状態です。
 しかし主イエスは弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とお語りになるのです。ここで「平和」と訳されているギリシャ語は、いままでの聖書では「平安」と訳されてきた言葉であり、ヘブライ語の「シャローム」です。つまりここで主イエスが語る「平和」とは、終末論的な救済、つまり神の救いに与ることによって獲得する平和であると理解しなければなりません。

Ⅱ.主イエスの福音を理解した弟子たち
 主イエスは、公生涯に出られてから、すぐに弟子たちを召し出し、そして神の国について語り続けてこられたのです。しかし弟子たちは、主イエスの語られる意味を理解することが出来ませんでした。それは弟子たちが思い描いていた救い、平和とは異なり、主イエスの語られる福音は、終末論的な神の国の完成にむけて語られていたからです(25)。
 しかし主イエスが復活され、弟子たちに会われた時、「あなたがたに平和があるように」(20:19)と語られ、弟子たちは理解したのです(26)。そして29節の御言葉が成就したのです。「事」とは、主イエスの十字架から死・復活の一連の出来事です。主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、十字架に架けられ、死を遂げられた時、弟子たちは主イエスの言葉の意味を理解することが出来なかったのです。しかし、主イエスが復活を遂げられた時、すべてを理解したのです。ここに主の御霊の働きがすでにあったのです。そして、主イエスが天に昇られた後、弟子たちは約束の弁護者として聖霊なる神さまが与えられることにより、主イエスによって宣べ伝えられた福音を宣べ伝えていく者とされます。
 宣教の業は、同時に迫害の歴史です。弟子たちは逃げ隠れることもありました。しかし同時に、主イエスの弟子たちは、心を騒がせることなく、おびえることなく、勇敢に福音を宣べ伝えたのです。そしてステファノに始まり、多くの弟子たちは殉教の死を遂げて行くのです。迫害が行われる世は「平和」ではありません。しかし弟子たちは、主がお語り下さった「シャローム」、神による救いに与る平安の内に置かれていたのであり、またさらに、彼らもまた主の救いによる平安を多くの人々に宣べ伝えたのです。

Ⅲ.シャロームを追い求めよ!
 私たちに求められていることは、シャロームを追い求めていくことです。信仰とは、私たち全人格の問題であり、私たちの魂の問題です。カルヴァンが語ったイザヤ書55章1~2節の説教が発見され、それが翻訳され「霊性の飢饉-まことの充足を求めて-」という書名にて出版されています。この冒頭でカルヴァンは語ります。「私たち人間は、自分の感覚に従って生きていますから、空腹ならば食事をし、喉が渇けば水を飲むことは当然のことであって、あえて誰かに「食べ物を探し求めなさい」などと忠告されなくてもそうするでしょう。さらに飢饉になれば、獲物を狙って貪り食らう獣のように人間は狂います。そこには「慎み」とか、「人間らしさ」などまったくなくなってしまいます。つまり私たち人間は、この世界と今の自分の命にあまりにも心奪われます。それに対して、私たちの魂を養う「霊性な食物」が不足している場合はどうでしょうか。これを必死に探し求めて、これによって満たされたいとは思わないのです。その結果、自分が滅び行く哀れな状態にあることを感じることなく、そのまま終わりを迎えます。しかし、ここで私たちは気付くべきです。神はこのような失われて行く人間たちに、計り知れない恵みをもって、語りかけて下さっているということです」。主イエスが弟子たちにお与え下さった「平安・シャローム」という救いを、私たちは霊的な渇望を覚え、追い求め、復活の主イエスに出会い、迫害のある中、宣教活動を始めた弟子たちのように、理解しているでしょうか? 「シャローム」は、まさに私たちに与えられている魂の救いです。
 主がお与え下さるシャロームは、世の支配者が取り除くことは出来ないのです(30)。ユダヤ人たちは、主イエスを逮捕し、十字架に架け、処刑することにより、勝利を勝ち取ったと確信しました。しかし、キリストは死に留まり続けることはなさいませんでした。死から三日目の朝、甦り復活を遂げられたのです。このことこそ、世の支配者、つまりサタンから主イエスは勝利を遂げられた瞬間です(参照:マタイ10:28)。私たちが主イエスを信じ、神の子となり、神の御国における永遠の生命の祝福に与ろうとする時、世の支配者は、邪魔をすることは出来ないのです。この時、私たちの魂は、まさに平安にあるのです。
 魂の糧である平安・シャロームが与えられているからこそ、私たちは、私たちを主なる神さま・主の平安から遠ざけようとする者がいる時、信仰の戦いを行い、主の平安から離れないのです。これが信仰の戦いとなるのです(エフェソ6:10~18)。主がお与え下さったシャロームにこそ、まことの救いの喜び、祝福です。



                                     (2011.7.24)

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