【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「ぶどうの木とその実」  ヨハネによる福音書15章1~10節



ヨハネによる福音書15章1~10節

 1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。



序.
 先週、ジュニアサマーキャンプが行われ、無事に終了しましたことをご報告出来ることを、主にあって感謝します。キャンパー、スタッフ含め70名、中部中会に25教会・伝道所があることを考えれば決して多い数字ではありませんが、主からの恵みと祝福に満たされていることは確かです。中会や大会でキャンプをすることが出来るのは、規模が大きくなるだけではなく、日本キリスト改革派教会に属し、キリストの教会を形成するという同じ志があるからこそ、安心して、協力してすることが出来るのです。

Ⅰ.本物と偽物
 今日の御言葉は、加入式・転入式の時に読まれるテキストです。つまり、一つのぶどうの房には数十の実がなっておりますが、ひとつのぶどうの木には、この房が何十と実っているのです。つまり一つの房が各個教会にあたり、それぞれの教会は一つのぶどうの木に連なっている房なのです。だからこそ、転入式や加入式では、同じぶどうの木に連なる房に属している者を受け入れるため、信仰を確認した上で、歓迎して受け入れるのです。
 主イエスは「まことのぶどうの木」(1)と語ります。言い換えれば「まことではない偽物のぶどうの木」があるのです(参照1:9「まことの光」)。何事においても、偽物を見破る力を身に着けることは求められるわけで、信仰も例外ではありません。
 旧約聖書では、イスラエルはぶどうである主なる神さまに繋がるぶどうの木であることが語られていますが、イスラエルの民は、みずからそこから離れ、偶像に走って行ったのです(参照:エレミヤ2:21、イザヤ5:2)。偽物・もどきの方が、居心地が良く、己の意のままに生きることが出来るからです。しかしここに落とし穴があるのです。主は、私たちに律法をお与え下さり、自らの姿を顧みるように求めております。十戒に示された戒めを、行い・言葉・心において守ることが出来ているかと語られます。自らの弱さ・罪が指摘されることは、非常に苦しみが伴います。しかし、私たちはそれを受け入れ、罪を悔い改め、メシアである御子イエス・キリストの十字架による救いがあること、聖霊による導きがあることを受け入れ信じる時、私たちは本当の主なる神さまとの繋がりが与えられるのです。イスラエルは、自らの罪を受け入れることが出来ず、偶像に走ったのであり、御子イエス・キリストによる救いを受け入れることが出来なかったのです。つまり「まことのぶどうの木」であるキリストが神の御子であることを否定する人たちは、御父・御子・御霊なる三位一体なる神さまを否定するのです。従って偽物・もどきではない、三位一体なる神さまを信じている真のキリスト教会に属する者は、同じぶどうの木に繋がるキリスト者であるために、新たに洗礼式を行うことなく、私たちの群れに加わることが許されるのです。

Ⅱ.キリストに繋がることの大切さ
 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2)と語られ、信仰の実りとしての伝道や善き業が求められるように解釈されることもあります。しかし重要なことは、キリストであるぶどうの木に繋がり、信仰を持つことです。ぶどうの木に繋がっていることがいかに大切なことであるかは、主イエスが弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3)と宣言された言葉にあります。彼らはまだ復活の主イエスに出会っておらず、真に信仰が与えられていませんでした。しかしキリストは彼らがすでに清くなり、救いにあることを宣言して下さったのです。重要なことは信仰の実りを確認する以前に、キリストに繋がり信仰を持つことです。
 ここで、現実のぶどうの実を思い描いて頂きたいのです。他の果物や花でも同様ですが、果物が立派な実を実らせるには、木がしっかりと根を張り、その木に実が繋がることにより、十分な水分、十分な栄養分を得ることが求められます。実は、自らで栄養を確保し、水分を確保して、実ることなど出来ないのです(4,5)。

Ⅲ.主の御言葉に聞き続ける
 救われるために、伝道しなければならない、善き生活を行わなければならない、罪を犯してはならない・・。これは自分で救いを勝ち取ろうとする行為であり、「真の信仰」ではありません。私たちがキリストに繋がり、豊かな実りをもたらすために求められている水・栄養は、キリストの言葉です(7)。主イエスの御言葉は、私たちが生きていく上で、永遠に渇くことのない命の水となるのです。
 そのため私たちは、主がお招き下さる礼拝に招かれ、御言葉に聞き、主に委ねて祈りを献げ、キリストの十字架の御業により罪が赦され、神の国における永遠の生命の約束が示されている聖晩餐に与り続けることが求められているのです。ぶどうが枝からもぎ取られると、しばらくはそのままの状態を保つことが出来ますが、次第にしぼみ、枯れてくるのと同じように、私たちは主からの御言葉の養いを受け続けなければ、信仰は豊かなものにならないばかりか、信仰そのものが失われ、主から離れ、主の裁きの対象となるのです。
 しかし、私たちが主からの栄養を求め続け、神の民として生きようとする時、私たちは、ただ神の御前で礼拝を献げ、御言葉に聞くに留まることはあり得ないのです。それは同時に、主がお語りになる御言葉にこそ、命があり、力があるため、主がお語りになる御言葉に聞き従う者へとされるのです。神さまはあなたを愛しておられます。あなたが罪から離れ、キリストに繋がって生きることを願っておられます。そして神の愛は、私たちを御言葉に従う者へと促し、主を愛し主を礼拝し、隣人に対して互いに愛し合い、助け合う者へと向かわせるのです。これらのことが、主がお語りになる信仰の実りそのものであります。それが結果として、伝道へと向かい、御言葉に生きるキリスト者として証しする生活へと促されていくのです。主がお語りになる御言葉に聞き続けること、御言葉により自らの姿を顧み、悔い改めること、そして主の御言葉に聞き従うことが求められています。私たちはまことのぶどうの木に繋がるぶどうであることにより、豊かな実が与えられるのです。


                                     (2011.8.7)

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