【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「友となってくださったイエス」  ヨハネによる福音書15章11~17節



ヨハネによる福音書15章11~17節

  11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」



序.
 15章の始めの御言葉により、私たちはぶどうの木である主イエスに繋がること、つまり主イエスを信じることこそが何よりも重要なことであり、主イエスがお語りになる御言葉に聞き、霊的養いを受け続けることにより、霊的成長が与えられていくを確認しました。その結論が「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」です(11)。つまり、私たちが主イエスに留まり、主イエスを信じることは、神御自身と主イエスの喜びであり、この喜びこそが、主イエスを信じる私たちキリスト者にとっても生きる喜びであるのです(参照:小教理1)。

Ⅰ.人の傲慢と神の計画
 私たちが神さまを信じ信仰の喜びに生きる時、私たちは「自分自身」を主体に考えてしまい、自分が救いの喜びに行きたければ、自分で神さまを信じて、神さまを礼拝していればよいが、そう思わなければ、神さまを信じなくてもよいし、たとえ神さまを信じていても神さまを礼拝しなくてもよいと、考えているのではないでしょうか。
 しかし主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。・・実を結び・・わたしがあなたがたを任命したのである」(16)とお語りになります。自分で神を選ぶことが出来ると思うことは傲慢・高慢な心があります。天地万物を創造された主なる神さまの御前に立つあなたは何者か? あなたの心をすべて知っておられながらも、救いの内に入れて下さっている主なる神さまの御前に立つあなたは何者か? 主の御前で行い・言葉・心の罪が示された時、あなたは反論することは出来ないのです。その上で主なる神さまは、ヨブ記をとおして、主なる神さまがどういうお方であるかを私たちに示して下さいます(ヨブ38:2~9、42:1~6)。

Ⅱ.主イエスと私たち
 また、私たちが主イエスによって実りを得るように、主イエスは十字架の道を歩んで下さいました。ぶどうの木に繋がるぶどうが実を結ぶためには水や栄養が必要ですが、同時に害虫を駆除しなければなりません。私たちもキリストに繋がるだけではダメであり、根本的な問題である罪が除去される必要があるのです。生まれながらに持っている罪、そして行い・言葉・心において毎日積み重ねる罪です。私たちを救いに導いて下さる主なる神さまは、この私たちの罪の償いを、主イエス・キリストの十字架に託して下さったのです。
 他人の生命を助けるために、結果として自ら死を遂げていかれる方がいます。それは善きサマリア人への譬え(ルカ10:25-37)で語られている隣人愛です。しかし主イエスの示された十字架の歩みは、人のために自らが死を遂げた他の人たちとは根本的に異なります。主イエスの死は私たちの罪の贖いのためです。このことは、真の神の御子にしか出来ないことです。ここに神の愛があります(13)。神の御子である主イエスこそが、愛の源であり、愛そのものであり、その愛が、弟子たちや私たちに対して示されているのです。
 その上で主イエスは、「もはや、わたしはあなたがたを僕(奴隷)とは呼ばない。・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。・・」(15)とお語り下さいます。主なる神さまと私たちの関係は、創造主と被造物、永遠の命を持つ聖・義・真実なお方と死に行く罪人の関係であったのです。そのお方が、私たちの罪を贖い、救いをお与え下さったのです。主が主権者であり、贖い主であり、私たちは主の僕・キリストの僕です。しかし御子が「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とお語り下さったのです。驚くべきことです。
 なぜ、主イエスは私たちを友として下さったのでしょうか? 神の主権の下、私たち人間は主の操り人形だと語る人がいます。しかし主は、私たちを友として下さり、私たちの思いをくみ取って下さるお方です。主は私たちの意志を100%尊重して下さいます。だからこそ、私たちは祈ることが出来、主は私たちの祈りを聞き届けて下さるのです(16)。
 別の言い方をすれば、私たちは、キリストを長子とした兄弟姉妹としての関係、つまり私たちは神の子とされたのです(参照:ローマ8:14-17)。

Ⅲ.救いの約束と教会の広がり
 主イエスは、私たちが神の永遠の計画にあり救いにあることをお示し下さっているからこそ、私たちは努力しなければ滅ぼされるとの恐怖をもって歩むことはなくなるのです。そして御子の友として、神の子としてのすべての特権が与えられているのです。私たちが救われるために与えられているもの、それは一方的な無償の恵みであり、滅びることのない安心・平安です(小教理32)。ここに私たちの生きる喜びがあるのです(11)。
 私たちに救いをお与え下さっている主イエスが、「互いに愛し合いなさい」(12,17)とお語りになります。信仰とは神とあなたの個人的な関係に留まることはありません。主イエスはぶどうの木とぶどうの関係でお語り下さいました。一つのぶどうの木に繋がる実として、主イエスによって愛され、豊かな実りがもたらされることにより、互いに愛し合うのです。そして主によって与えられた喜びは、自然と広がりを見せるのです。
 主イエスは十字架の死にいたる愛を私たちにお示し下さいました。愛し合うとは、犠牲が伴うことです。しかしこの犠牲とは、主によって与えられた喜びに比べれば、取るに足らないことです。だからこそ愛し合うことが出来るのです。この犠牲を伴う愛が、教会の中では聖徒の交わりとして表れ、ディアコニア(執事的働き)となり、また神さまを知らない人たちに対しては、愛の交わりをとおして、キリストの福音を宣べ伝えていくこととなっていくのです。

                                     (2011.8.14)

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