【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「キリスト者と世に属す者」  ヨハネによる福音書15章18~25節



ヨハネによる福音書15章18~25節

  18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。



Ⅰ.
 主イエスは最後の晩餐において説教を続けておられます。15章の始めではぶどうの木の話しを行い、ぶどうである私たちは、ぶどうの木であるキリストに繋がることにより、豊かな実りをもたらし、神の救いにあることが語られてきました。ところが今日の御言葉においては、「世はあなたがた(キリスト者)を憎むのである」とお語りになります。両者の話しが乖離しているようでが、キリストに繋がるとは、同時に世から選び出されたのであり、それは世とは異なる者となったことを確認しなければならないのです。
 主イエスはこの夜、逮捕され、弟子たちから離れて行きます。つまり今まで、弟子たちをユダヤ人たちから守り、盾となって下さっていた主イエスは、弟子たちの前からいなくなるのです。しかし、主イエスが逮捕され、弟子たちの前からいなくなることにより、弟子たちは自分たちで、ユダヤ人たちに対して対処しなければならなくなるのです。
 事実、主イエスが逮捕された時、恐ろしくなり、散っていくわけであり、ペトロは、翌朝の鶏がなくまでに三度、主イエスのことを知らないと離反してしまうのです。
 ここで私たちが今日与えられた御言葉から考えなければならないことは、①ぶどうの木に繋がれ、救いに導かれたキリスト者とは、社会である世からすればどの様な存在であるのか? ②キリストに繋がっておらず、社会を形成している世とは何か? の2つです。
 このことを考えるに先立ち、そもそも神の御子であるキリストがなぜ人となられたのかを確認しておかなければなりません。福音書記者ヨハネはこの様に語り始めます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:1-5、参照:1:9-10)。だからこそ、キリストを信じキリストに繋がることは、キリストの光に入れられ、キリストの命に与り、天国における永遠の祝福に与るのです。一方、キリストに繋がらず属していない者は、闇に属する者であり、光を理解することが出来ないのです。ここに、世に属する者が、キリストに繋がる者に対する迫害の構図が露わになるのです。

Ⅱ.キリスト者と世
 私たちは確認しなければなりません。皆さんは日々の生活にあって、信仰の挌闘を行いつつ、生活をしているでしょうか? 主イエスは「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(19)とお語りになります。真のキリスト者であれば、毎日の生活にあって信仰の挌闘があるのです。主は「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とお語りになり、インマヌエル(神、我と共におられる)であり、神の御前に、改革派教会は有神論的人生観世界観を確立することを求めているのです。
 食べること、飲むことにおいて、神さまを覚えて、神に栄光を現すために行うことと、そうでないこととに、どこに違うのか? 神さまを知らない人も、農作物などを作って下さった方々や、調理して下さった方々に感謝して食します。しかし神さまを信じ神の御前に生きる時、考え方は違ってきます。農作物に感謝するにしても、農家の方々への感謝と共に、農作物に光を与え・水を与え・成長させて下さった主なる神さまの恵みを忘れません。神の恵みがなければ、農作物は育たないのです。出エジプトを果たしたイスラエルの民に、主がマナをお与え下さったことも覚えなければなりません。
 キリスト者は、キリストの十字架によって罪が贖われ、救いに入れられた者として、キリストに繋がっているのです。キリストから、真の栄養である霊的御言葉の養いを受けているからこそ、生きることが出来るのです。キリスト者はキリストの御言葉に倣い、主を礼拝し、隣人への愛を貫きます。キリストの十字架が一方的であるように、キリスト者の隣人への愛も隣人に対して報いを求めるものではありません(例:サマリア人への譬え(ルカ10:25-)、金持ちの青年に対する主イエスの答え(マタイ19:16-22))。
 一方、暗闇の中つまり世に属する人々は、生活の目的が異なるのです。生きる目的は最終的には自分のためです。愛の業を行う時も、何らかの見返りを求め、期待しているのです。金銭的なこと・地位や権力・人々からの賞賛・・・。ボランティアという名において、人々からの賞賛、感謝、自分自身の思いの満足感を求めているのではないでしょうか。
 キリスト者によって無償の愛、見返りを求めない愛が示される時、相容れないのです。ここに衝突が起こるのです。だからこそ、キリスト者としての歩みを続けて行こうとする時、それは天における祝福であり、神と共に歩む恵みと祝福に富んだ人生となるのですが、一方地上にあっては、世からの障害・避難・批判・迫害を避けて通るは出来ないのです。

Ⅲ.伝道の祝福
 サマリア人のように、隣人を愛し、見返りを求めず、心から誠心誠意行うことが主の求めです。こうした行いは、まさにディアコニア(執事的活動)としての教会の業であり、同時に、人々にキリスト教を伝える伝道そのものです。
 ボランティア的なものや福祉活動においては、人々はキリスト者の行いを受け入れるでしょう。しかしキリスト者として、キリストを証しするため、キリストの栄光のために行っているという動機・目的は、彼らは理解出来ないのです。キリスト者の行いと目的が示され、キリストが証しされながらも、それを拒否し、拒絶する者は、神に敵対する者として、キリスト者に対しても対抗してくるのです。しかし同時に行いをとおして、キリストが証しされ、そしてキリストを受け入れて頂く時、伝道が実りをもたらすのです。


                                     (2011.8.21)

COPYRIGHT(C) 2011 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る