【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「キリストの言葉を思い出せ」  ヨハネによる福音書16章1~4節



ヨハネによる福音書16章1~4節

  1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」



Ⅰ.つまづき
 主イエスは、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」とお語りになります。キリスト者としてのつまづきとは、信仰につまづき、神さまから離れることを語ります。教会に来たことがある人が、すべて主イエス・キリストを救い主として信じて、信仰生活を続けるわけではありません。時には、信仰告白をして洗礼を受けた人であっても、教会から遠ざかる人もいます。つまづきの原因は、神さまに対して、信仰そのものに対して無関心となるか、拒絶する者もありますが、教会員の言動に対してつまづきを覚えることもあるかと思います。
 「つまづき」と訳されているギリシャ語は「邪魔、誘惑」とも訳される言葉です。つまり私たちが神さまを信じようとすることを邪魔する者の存在があるのです。信仰に対するつまづきを私たちが考える時、個人的な信仰、他人との関係と、私たち自身の問題として考えてしまいます。しかしギリシャ語から考える時、つまづきは一方にあって、サタンからの誘惑でもあることを忘れてはならないのです。言い換えれば、神さまを信じる、信じない、人につまづく、つまづかないと語る時、私たちを救って下さろうとしている主なる神さまのお働きがあり、それを邪魔しようとしているサタンの働きがあるのです。つまり主なる神さまは、教会に一人ひとりをお招き下さるのです。そして礼拝を通して、特に福音が語られる御言葉の説教を通して、罪の赦しと救いをお示し下さいます。信じる者は、皆救われるのです。主のそうしたお働きがある時、同時に私たちを主なる神さまから引き離そうとする力、サタンの誘惑があるのです。それが人との関係において表れるのです。

Ⅱ.真のキリスト者、偽キリスト者
 主イエスは、どの様な人たちが、弟子たちや私たちをつまづかせ、神さまによる救いの恵みから引き離そうとしているかをお語り下さいます(2~3)。「あなたがたを殺す者」とは、迫害者のことです。つまり私たちは信仰を貫くためには、何らかの形での迫害は避けて通ることが出来ないのです(15:19)。特にキリスト者が極少数の日本では、私たちが神さまを信じる時、周囲の人々との関係が変化することを恐れてはならないのです。
 主イエスは「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語りになります。ここで主イエスはユダヤ人のことを語っておられるのですが、彼らは自分たちがアブラハムの子であり、神の救いにある神の子としてのイスラエルであると自負し、疑う余地はなかったのです。神さまを信じていると公言し、自分たちも信じて止まない人々が、本当の意味での福音から離れ、自己に立ち、そして神さまを信じる者たちクリスチャンを迫害することは、時代が下ってからも繰り返されていくのです。彼らは自分はクリスチャンだと思っているからこそ、教会は対応が難しくなるのです。
 ローマ教会が堕落し、免罪符を販売することにより救いを売買する状況になり、宗教改革が発生しますが、「自分は神に奉仕していると考えている」ローマ教会が、聖書を福音的に解釈し、教会の腐敗に対して声を挙げたルターを初めとする改革者たちに対して、迫害していくのです。その結果、教会は分裂していったのです。戦時中の日本の教会も同様です。「神社は宗教に非ず」との声に迫害を恐れて神社参拝を行っていく教会に対して、神社参拝は偶像礼拝であるとして、美濃ミッションは行動します。そうした時、同じプロテスタの教会の牧師が、「非国民」として、美濃ミッションを迫害していったのです。つまり迫害とは、神さまを拒絶する人たち、自らを神格化しようとしている為政者たちから起こるのですが、神さまを信じていると自認しているいわば身内からも起こりうるのです。
 私たちも自らの信仰を確認しなければなりません。感情のもつれによるつまづきは避け、取り除かれなければなりません。しかし努力によって改善できることではありません。私たちに問われていることは自分自身の信仰を確認することです。主イエスが語られる迫害者の姿は御父をも主イエスも知らないのです。それは神による救いを求めながらも、律法主義となり、自分の義により救いを獲得しようとしている者の姿です。つまり、私たちが「神さまを信じる」と語る時、私たちは父なる神さまによる救いのご計画を受け入れ、キリストの十字架の贖いによって罪の赦しが成し遂げられ、神の国における永遠の生命を受け入れ信じているかどうかを確認しなければなりません。キリストの十字架による救いを受け入れることは、自らの罪を受け入れ、悔い改めることです。神の一方的な愛による救いを受け入れることであり、神に愛されている者として、神を愛して神のお招き下さる礼拝に集い、隣人を自分のように愛するのです。つまり私たちは自らの信仰を確認することにより、誰に対してもおごり高ぶることなく謙虚と謙遜をもって接することとなるのです。
 つまり隣人との関わりとは、行い・努力によって成し遂げていくことではなく、主の御前に自らの信仰を確認することにより、変えられていくのです。ここで私たちに求められていることは、自らの信仰を顧み、悔い改めと救いの喜びに生きることです。
 また、信仰を保っている時に犯す他人へのつまづきに対して、ウェストミンスター信仰告白第17章「聖徒の堅忍について」第3節で語られています。非常に慰めに富んだ告白です。一時的な主の裁きはあったとしても、滅びの宣言ではありません。

Ⅲ.神の救いの約束に生きる喜び
 一方、私たちが信仰を貫こうとする時、つまづきを与えようとする誘惑・迫害から逃れることはできません。「そんなことをしてまで、神さまを信じるつもりはない」とも言われることでしょう。しかし主イエスは、信仰の弱い弟子たちに対して、そして信仰の弱い私たちに対して、「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とお語り下さいます。ここに神の愛があります。
 主イエスは、何をお語り下さったのでしょうか。15:19「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」と宣言して下さいました。15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに身を結ぶ」とお語り下さり、15:7「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と語りくださっているのです。
 私たちが、父なる神さま、そして救い主イエス・キリストを信じるならば、私たちは、救われ、神の国・天国において永遠の生命に与ることが許されるのです。そのことを確認するために、私たちはこの後、聖餐の礼典に与るのです。パンとぶどう酒に与ることが出来るのは、信仰を告白した人たちだけですが、これから信仰を告白しようとする人たちも、この礼典によって、同じ交わりに入れられる確信を持って頂きたいのです。それと同時に、この世にあっても、神さまを知らない人たちからの迫害・虐げはありますが、それ以上に、主が共にいて下さるからこそ、私たちの祈りは、すべて主によってかなえられるのです。



                                     (2011.9.11)

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