【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「真理の霊」  ヨハネによる福音書16章12~15節



ヨハネによる福音書16章12~15節

 :12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」



Ⅰ.御言葉と聖霊
 主イエスは、逮捕され、十字架に架かろうとされています。主イエスが宣教活動を始め、弟子たちと出合ってから3年程であります。寝食を共にしていたとしても、どれだけのことを主イエスは弟子たちに語ってきたことでしょう。しかし主イエスは弟子たちに語りたいことはまだあるのです。弟子たちもイエスさまがおられなくなることに不安を持っています。私たちも不安が一杯です。私たちは弟子たちより遥かに訓練不足であり、無知、粗野です。そのため、時が限られていると痛感させられている点では似ているのです。
 しかし、これで時間切れであり、主イエスは私たちの救いのために必要なすべてのことを語ることなく、天に昇られたのではありません(Ⅱテモテ3:15~17、ヨハネ黙示録22:18~19、参照:ウェストミンスター信仰告白1:6)。
 ただこの時の弟子たちは、主イエスの言葉を理解することが出来なかったのです。知識を蓄え、頭の中で理解したとしても、信仰的に用いる生きた知識ではなかったのです。この時弟子たちは、真理の霊が下る時を待つ必要があったのです(13)。事実、弟子たちは、主イエスの十字架と復活、そして聖霊が与えられることにより、すべてを理解し福音を宣べ伝える者とされていくのです。つまり主イエスは、この時まだ言いたいことは残っていたのですが、弟子たちが主イエスを信じ福音を宣べ伝えるに必要なことはすべて語ってきていたのです。主イエスの教えと御業、聖霊が宿ることにより、弟子たちは理解することが出来たのです。主が御霊を通して、彼らに信仰的に理解する能力をお与え下さったのです。まさしく奇跡であり、賜物として与えられたのです。私たちも同じです。聖書や神学の知識に長けた方はいます。自らの知識を誇り、人を裁いてしまいます。そこに聖霊が宿っておらず、聖書知識が信仰となっていないからです。
 一方、聖書知識・神学を抜きに霊が宿ったのであれば、真理である主イエス・キリストによって救いに導かれることが示されず、真の信仰にたどり着くことはないのです。聖霊単独の働きではなく、御言葉と結び付いての働きが特に重要なのです。
 つまり御言葉が説き明かされ、そこに聖霊の養いがある時、人は主による救いを受け入れ、真実の信仰、救いへと導かれるのであり、この時、その人は主の御前に罪が赦されたことによる謙虚と遜りが生じ、主の御言葉に聞き従う謙遜が生じるのです。

Ⅱ.三位一体における聖霊の位置づけ
 では聖霊とはどういう存在なのか? キリスト教会は、歴史的に御父・御子・聖霊を三位一体の神として、信じています(参照:信仰告白第2章3節、大教理問8~11)。そして私たちは、御子を中心に聖書を読みます。ヨハネ福音書は、御子が御父との関係について繰り返し語り、最後に御父・御子と聖霊の関係を示します(13b~15)。つまり御父・御子・聖霊を別々の働きとして理解せず、三者のつながりを確認しなければなりません。

Ⅲ.三位一体なる神
 御父は、すべてをご計画し、私たちの救いも予定して下さいます。同時に、天地万物の創造から始まり、すべてを守り、御子をこの世にお遣わし下さいます。そして、御子に救いの御業を行わせ、救いの福音を御子を通して伝えるように示して下さっているのです。
 そして御子は、地上において私たちを救うために、律法につかえ、そして十字架の御業を成し遂げ、さらに御言葉として、私たちに福音を伝えて下さいます。しかし御子の御業と御言葉は直接、私たちに届くのではありません。御子は救いの御業を終えると天に昇られ、御子の御業と御言葉は、聖霊をとおして私たちに伝えられるのです。
 だからこそ繰り返して語ることは、私たちは礼拝により、説教で聖書知識を学ぶことに集中していてはならないのです。説教で御言葉の聖書の説き明かしがなされると同時に、聖霊の働きを豊かに受け入れなければなりません。つまり自ら学び、神の真理を知ろうとするのではなく、主が御子により聖霊によってお語り下さる福音を、私たちは受け入れるために心の扉を開かなければならないのです。
 主の晩餐も同じです。聖餐式は、目に見え、口で味わえる説教であると語られます。一方で、御子の十字架の御業によって与えられた私たちの救いを想起するわけであり、他方、主がお与え下さる神の国における晩餐に招かれていることを確認し、前味を味わうのです。聖餐に与ることにより、この恵みにあることを覚えることが出来るのであり、それは聖霊の交わりによって、私たちは理解することが出来るのです。
 私たちは今も、真理の霊としての聖霊が私たちに宿って下さっているからこそ、救いを受け入れ、救いの喜びに生きることが出来、礼拝に出席することがゆるされているのです。私たちの願いを祈ることが出来るのも、私たちの祈りを聖霊が受けとめて下さり、御子によって、父なる神さまに伝えて下さることにより、その祈りが聞き届けられるのです。
 御子イエス・キリストの十字架の御業と共に、今、私たちに聖霊が与えられていることに、心から感謝しつつ、喜びをもって、日々、歩み続けていただきたいものです。

                                     (2011.10.2)

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