【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「しばらくすれば・・・」  ヨハネによる福音書16章16~24節



ヨハネによる福音書16章16~24節

  16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」



序.
 今、日本は、目に見えない恐怖・放射能に脅えています。この放射性物質の量を測る単位としてベクレル、ミリ・ベクレル、マイクロ・ベクレルが用いられます。「ミリ」は千分の一ですが、「マイクロ」とは1/100万です。この「マイクロ」という言葉は、ギリシャ語から来ており、「少し、少ない、僅かな、ちょっとした」とした意味であり、今日のテキストにおいても用いられており「しばらくすると」と訳されているのです。

Ⅰ.受難の三日間
 主イエスは「しばらくすると、あなたがはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)とお語りになります。この言葉に対して、弟子たちの間で疑問がわき上がるのです。私たちは、主イエスの言葉を、主イエスの十字架の歩みをすべて知った上で、確認しています。しかし、私たちは主イエスが語られた言葉の意味をしっかりと理解しておかなければなりませんし、繰り返して語られる「しばらくすると」という言葉に込められた主イエスの思いを確認しなければなりません。
 主イエスが語られているのは、最後の晩餐においてです。ヨハネ福音書では13章から説教が始まっています。主イエスは数時間かけて語られたのではないでしょうか。そして主イエスは、最後の晩餐の説教を語り終えると、ゲツセマネに行かれ祈りを献げられ、その場で主イエスは逮捕されました。この時ペトロを初めてとする弟子たちは逃げて行き、主イエスから離れていくのです。主イエスが今説教を語られている時から、僅か1・2時間の出来事ではないでしょうか。ここに主イエスの言葉は成就するのです。
 その後、主イエスは、裁判を受け、翌朝には十字架に架けられ、そしてその夕べには十字架上で死を遂げられます。つまり主イエスが「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と語られたことは、主イエスの逮捕と、主イエスが死を遂げられることの二つの意味が含まれていると言うことが言えるでしょう。
 しかしこの時、主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20)と語られるばかりか、すぐに「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と語られるのです。つまり主イエスが「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と語られていたこと、つまり主イエスは十字架の死から三日目の朝に甦り・復活されるのです。まさに「わずか、またたく間」の出来事として成就していくのです。

Ⅱ.主の考えておられる「すぐに」とは・・・
 わたしは、主イエスが「あなたがたはもうわたしを見なくなる」ことに対して二重の意味があることを語りましたが、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」ことにも、二重の意味を考えなければならないのです。つまり、主イエスの再臨と神の国の完成の時です。主イエスの弟子たちがそうであったように、その時代時代に生きているキリスト者は、この時を今日か明日かと待ちわびているのです。
 しかしこの時は、2000年経った今なお、この時は訪れていません。主イエスは嘘を語ったのか?私たち人間の生涯が80年、90年だと言うことからすれば、非常に長い年月であり、「またたく間」とは決して語ることが出来ない年月が流れました。しかし、天地万物を創造し、すべてを御支配になられている主なる神さまからすれば、この期間は決して長い時ではありません(Ⅱペトロ3:8-9)。そして主はすぐに(マイクロ)来られることを繰り返し約束して下さっているのです(ヘブライ10:36~39、黙示録6:11)。
 主は「すぐに」とお語りになりつつ、なお遅延しておられる理由は、神の民がまだすべて集められていないからです。主の思いとしては「すぐに」なのです。今、神の国が完成しますと、本来そこに入るべき神の民が、そこから落ちてしまうのです。主はそうした心ないことはされないのです。だからこそ私たちは、この神の愛と忍耐を理解しなければなりません。神の民は誰一人、滅びてもいけないのです(参照:ウ信仰告白第12章)。

Ⅲ.伝道することにより「すぐに」を待とう!
 だからこそ主イエスは宣言して下さるのです(22)。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」私たちに与えられる救いの喜びの時、それは「すぐに」来るのです。この時には、悲しみも苦しみもありません。この神の約束が私たちに与えられているのです。だからこそ、私たち自身が神の救いの希望と喜びに満たされつつ、かつ神の民がすべて満たされるように、一人一人が主による救いを証ししつつ、伝道集会に備えていただきたいと思います。

                                     (2011.10.9)

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