【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「あなたを愛しておられる主」  ヨハネによる福音書16章25~33節



ヨハネによる福音書16章25~33節

  25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」



Ⅰ.十字架によって明らかにされる奥義
 主イエスの十字架が目の前に迫っています。神の救いの御業が成し遂げられようとしているのです。主イエスの十字架と復活は、キリスト教信仰の中心であり、私たちの救いの確信そのものであります。しかし同時に十字架は、天地万物の創造から神の国の完成の救済史全体の中にあっても、大きな転換期であります。つまり聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っていますが、旧約と新約を分けるのが、キリストの十字架であるのです。
 旧約から新約の時代に移ることにより、神礼拝をはじめ、あらゆることが変化していくのです。旧約の時代、メシアの到来が約束されつつも、キリストの到来も十字架ははっきりとは示されず、隠されていたのです。キリストの十字架の御業が完成することにより、神の救済の業が、私たちに明らかになったのです(参照:ローマ16:25-26)。
 主イエスが25節において語ることは、まさにキリストの十字架により、父なる神の救いのご計画が、明らかになることを語っているのです。今までの聖書では「奥義」と訳されていた事柄(新共同訳聖書は「秘められた計画」・「秘密」と訳す)が、キリストの十字架によって明らかになるのです。

Ⅱ.三位一体論的に神を信じる信仰
 そのためキリストの十字架を境に、神礼拝も変化を遂げます。旧約時代の神礼拝とはどうでしたでしょうか? 出エジプトにおいて臨在の幕屋が与えられ、後に神殿へと移っていきますが、契約の箱の置かれている至聖所を前に、祭司が贖いの生け贄を繰り返していたのです。大祭司ですら、この契約の箱の置かれている至聖所に入ることが許されたのは、年に一度しかなかったのであり、通常は祭司が聖所において奉仕をしたのです。ましてやイスラエルの民が、直接、神の御前に立つことは出来なかったのです。イスラエルの民が神の御前に立つことなど許されなかったのです(出エジプト3:5~6)。
 ただ現代は、旧約の民のように、主なる神さまの大いなる御業に、ひれ伏し、畏れ敬う姿勢が忘れられているのであり、現代に生きる私たちには、主の御前にある遜りを持ち、主の御言葉に全面的に聞き従うことです。
 しかし新約の時代となり礼拝様式が変化します。旧約の時代は祭司によって執り成しが行われていましたが、必要なくなるのです(26節)。主イエスが十字架において死を遂げられた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタイ27:51)。それはキリストの十字架の死により、神の民の罪の贖いが完成したからです。キリストの十字架により、神の民の罪は赦され、義と認められ、神の子に入れられたのです。神と民との間にあった、義と罪という隔たりはなくなり、神は私たちと和解して下さったのです。この時、父なる神さまの御業はすべて明らかになり、罪人の贖いが完成することにより、神と神の民との間で交わりを行うことに支障がなくなったのです。ここに主なる神さまの救いの御業が完成するのであり、ここに神の愛がはっきりと示されるのです。
 27節では二つの文章が並列的に記されていますが、「なぜなら」という接続詞が訳されていません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られています。私たちを愛し、私たちを死から救うために、キリストが十字架にお架かり下さり、死と復活を成し遂げて下さったのです。このはっきりと示された救いを、あなたは受け入れるかどうかが、問われているのです。
 この後私たちは聖餐式に与ります。聖餐式で式辞が読まれ、信仰と罪の悔い改めが求められます。主の晩餐に与ることは、キリストの十字架により死から救われたことを感謝をもって受け入れる信仰の告白です。そして主は、私たちがキリストの十字架により罪が赦され、神の民として永遠の生命にあることを宣言して下さるのです。
 最後に主イエスは「あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と語られます。主の救いの御業は、御父のご計画が、御子によって成し遂げられ、御言葉により、聖霊と共に私たちに示されています。一方、私たちは「主イエス・キリストの御名において祈り」ます。聖霊をとおして、御子によって、御父に対して祈るのです。旧約における至聖所の垂れ幕は廃棄されましたが、御子の仲保が必要です。父なる神の私たちへの愛は、御子の御業により明らかにされ、聖霊により私たちの心に示されているのです。三位一体なる主なる神さまのハーモニーの中に、私たちの救いがあり、命があるのです。


                                     (2011.11.6)

COPYRIGHT(C) 2011 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る