【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「主によって主によって選び出された私たち」  ヨハネによる福音書17章6~10節



ヨハネによる福音書17章6~10節

  6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。



序.
 人は、「救われる神の民と、そうでない者がいることは不公平ではないか」と言います。また、「前もって選ばれているのであれば私たちは操り人形なのか」とも言われます。教会は、神の御言葉を正しく理解し、また避けずに語っていくことが求められています。

Ⅰ.全的堕落
 12月になり町中でイルミネーションが灯り始めました。希望を求めてでしょうが、神なき世にあって真実の希望はありません。真実の希望・平和・永遠を求めるならば、唯一生きて働く主なる神さまを求めなければなりません。私たちがクリスマスのお祝いするのは、クリスマスにお生まれになられたイエスこそが、真実の光だからです(ヨハネ1:4-5a)。神さまは私たちを愛し、救うために御子を人としてお送り下さったのです(同3:16)。
 しかし一番の問題は、誰一人、光としての御子を理解出来ないことです(1:5b)。世に属する人々は、自らの罪の故に、自らの欲望を求め続け、今の時の快楽を求め、御言葉によって示された光を理解することが出来ないのです。アダムの犯した罪は、彼から生まれ来る私たちにまで及んでいるのであり、私たちは体全体が全的に堕落しており、まったく神の真理を受け入れることが出来ず、自らの罪の刑罰としての死を避けて通ることの出来ない存在なのです。

Ⅱ.神の選び
 それでもなおも主は私たち人間を愛して下さり、私たちを救いに導いて下さったのです。救いは神の一方的な憐れみ、神の一方的な恵みです。そしてパウロの語った言葉を私たちは心に留めなければなりません(ローマ9:14-16、20-24)。
 つまり私たちは、主の御前に罪人であり、罪の刑罰としての死を避けて通ることの出来ない存在であること、さらに私たちは創造主である神さまの被造物であり、私たちは創造主である神さまの御意志に従ってこそ生きる時、神の恵みの中にあるのであって、主の御意志に背いた所で、神の恵みや喜びを伴って歩むことはできないのです。

Ⅲ.聖霊の働き
 では主なる神さまは、救おうとして下さっている私たちに何をお与え下さったのか? 私たちを世から選び出し、御名を現して下さったのです(6)。「御名」とは、神の名・神の本質・実態です。つまり「キリストこそが真の創造主であり救い主である」という真実が私たちに示されたのです。
 これはただ知識として知ったのではありません。「彼らは御言葉を守りました。・・今、彼らは知っています」(6)。「守る」、「知る」とは、語られた御言葉により、神の本質を知識として知り、神を神として畏れ敬い、御言葉にひれ伏す、御言葉に聞き従うことです。さらには神がどの様なお方であるか知ろうとすることです。それが信仰となり、礼拝に与る者となるのです。聖書を読むこと、教理を学ぶこと、祈ることへと繋がるのです(8)。
 これは主なる神さまが、聖霊をとおして私たちに働きかけ、頑なな石のような心の扉を開いて下さった結果です。主なる神さまが私たち一人ひとりをお選び下さり、心の扉を開いて下さったのです。父なる神さまの救いのご計画にある私たちが、御子のものとされたのです。そして私たちが、キリストがこれから成し遂げられる十字架に繋がることにより、私たちは全的堕落した状態から、キリストの十字架の刑罰により罪が取り除かれ、義と認められ、神の子とされ、神の聖さが与えられているのです。

Ⅳ.伝道
 では「神はある者を救い、ある者を滅ぼす不公平なお方だ」と語る場合、あなたはどこの立場に立ってこの言葉を発しているのか。主の大いなるご計画の中に私たちは生きているのであり、傍観者ではありえません。「私は救われたい。神の永遠の生命に与りたい」と思うのであれば、信じればよいのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。神のご計画は、私たちの意志を無視して起こるものではなく、主は聖霊を通して私たちに働きかけ、私たちは意志をもって行動するのです。
 また「救われない方が可哀想だ」と語られる場合、自らが救われた喜びに満たされて、彼らに福音を伝え、救いの喜びを証しすればよいのです。私たちが伝道することによって、神さまを信じるようになった人は、彼らもまた神さまの選びに入れられていたことを、私たちは結果として知ることができるのです。
 最後まで主なる神さまを信じることなく拒否し続ける者は、主の選びにはなく、結果として自らの罪の故に滅びに至るのです。しかしこれは最終的なことであり、主は神の選びの民一人ひとりに最も相応しい時を定め、神さまを受け入れ、信じるように導いて下さいます。だから、私たちが福音を宣べ伝え、証ししても、受け入れず、信じなかったから、「彼は選ばれていない」と安易に結論づけるのは不信仰であり、私たちは救いの感謝と信仰をもって、福音を宣べ伝えればよいのです。


                                     (2011.12.4)

COPYRIGHT(C) 2011 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る