【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神に属す者」  ヨハネによる福音書17章11~19節



ヨハネによる福音書17章11~19節

  11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。





序.
 私たちキリスト者は、神に属する者です。しかしこれは神と私が一対一の関係で繋がっているのではありません。キリスト者それぞれが神からの賜物を得て、神と教会に仕え、キリスト者相互の交わり(信仰共同体)が与えられているのであり、キリスト者相互に一致、つまりハーモニーが求められているのです。キリスト者の一致は神の国に向かうことによる一致です(ウェストミンスター小教理問1)。向かう方向と目的が異なれば一致はありません。

Ⅰ.一つとなる
 主は御父・御子・御霊なる三つの位格を持ちますが、なおも一人の神です(11:わたしたち)。そして御父・御子・御霊なる三位一体なる神は、永遠・無限・不変の霊であり、互いにあって愛によって一つであり、完全なる一致があるのです。
 三位一体なる神が一つであるように、主イエスは私たちキリスト者が一つとなるように求めています。主は私たち人間を「我々にかたどり、我々に似せて、人を造」られたのであり(創世1:26)、「その鼻に命の息を吹き入れられた」のです(同2:7)。創造された時、人は一つの思い、つまり創造主を誉め称え礼拝し、世を治める者として一致していたのです。

Ⅱ.罪の故に分裂を繰り返す教会
 しかし人に罪が混入し、神から離れ、己の欲望のままに生き、死を担い、バラバラとなったのです。現在、キリスト教会であっても完全に一致することは出来ません。教派に別れ、同じ改革派教会内であっても、教会間に違いがあります。それは、主によって救いに導かれても、私たちはなおも罪人であり、救いの喜びに生きようとしても、なおも自らの思いで解釈してしまうのであり、それぞれが自分が中心となるからです。
 主イエスの弟子たちはどうだったか? 主イエスの弟子たちも主イエスの教えから離れ、一致することはできませんでした。最後の晩餐においても弟子たちの間で議論が起こっているのです(ルカ22:23-24)。弟子たちが誤ったことを語れば主イエスが誤りを正して下さり、誤ったことを行えば、主イエスが正し導いて下さったのです。このようにして弟子たちは、キリストにあって一つとされていたのです。しかし聖霊降臨を迎える時、彼らは一つとなっていました(使徒2:1-2)。神に属する者としてキリスト者が一つとなるためには、自我を捨て、すべてを主(聖霊)に委ね、主によって語られる御言葉に聞かなければなりません。一人ひとりが自我から離れ、主に委ねることにより、主の導きに従うことによる一致が与えられるのです。私たちは聖書を読み続けることにより、自らの罪を悔い改め、主への信仰が増し加えられ、主の命令に聞き従うものとされていくのです。
 この時私たちの信仰観が問われます。ルターは「自分はいかに救われるか」から宗教改革を出発しました。つまり信仰を考える時、出発点は自分にあります。しかしこの時、各々の神観が異なれば、一致にズレが生じてくるのです。私たち改革派教会では、神の創造の秩序に生き、神の国の完成に向かう歴史に自らを捉えます。つまり出発点は神であり、神はどのようなお方であるか、神は私たちをどのように救いに導いて下さるのか・・の聖書解釈の一致が重要となってきます。聖書を正しく解釈することにより、誤った聖書解釈を除去し、教会は一致することができるのであり、それを信仰告白によって表明するのです。ですから教会が信仰を告白し、信仰告白から生じる教理を学び続けることは、教会が一致し、神の国に向かって私たちが歩んでいくために、非常に重要なことであるのです。

Ⅲ.終末における宣教
 主イエスは、キリスト者を神に属する者としますが、しかしまだ神さまを知らない人たちをすぐに裁きを行うことはしません。毒麦の中に良い麦が混入しているからです(マタイ13:24-30、36-43)。毒麦と良い麦が分けられる収穫の時を待たなければならないのです。だから伝道が求められるのです。福音を伝える時、神の民でなければ、最終的に主の御言葉が伝えられてもそれを憎み(14)、神の民と世に属する者とが分けられていくのです。しかしそれは最後の最後まで分からないため、福音宣教が絶え間なく行われ続けるのです。
 だからこそ主イエスは、キリスト者を悪い者から守られることを祈って下さいます(15)。両者の間に衝突が生じ、迫害となるからです。迫害は福音宣教を行う上で避けて通ることができないのです。この時、キリスト者は、衝突を避けようとして妥協するのですか? そうではありません。何でもかんでも衝突すれば良いとは語りません。主から託された知恵により、衝突が回避できる所は回避すればよいのです。

 しかし私たちが第一にすべきことは、主の御言葉に聞き、主の御意志を知り、一つとなって主の真理を貫くことです。この時、世に属する人々は、自らの罪が示され、主への信仰へと導かれていくのです。これが伝道です。主が私たちを支配しておられ、私たちに罪の死から救い出して下さった大いなる恵みの中にあることを確認しつつ、救いの感謝と喜びをもって、私たちが主の御言葉に聞き従った生活を行い、主の御前にも人々の前でも、遜り、証しの生活を送る時、宣教の業がなされていくのです。
 そして、一教会・教派の枠を超えて、超教派(エキュメニズム)における一致が成し遂げられていく時、福音宣教に力が増していくのです。日本において福音宣教が広まっていくためには、教会自身が御言葉によって変えられ続けることが求められているのです。


                                     (2011.12.11)

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