【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「あなたもイエスの弟子か?」  ヨハネによる福音書18章15~18節



ヨハネによる福音書18章15~18節

  15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。



序.
 主イエスは逮捕されました。このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいます(マタイ26:56b)。神の御子キリストが逮捕されたことにより、弟子たちは、神の救いよりも、目の前にある武器・権威者に恐れを抱きます。

Ⅰ.もう一人の弟子
 それでもなお弟子たちは、先生であるイエスがどのようになるのか、気になって仕方がありません。そのためペトロともう一人の弟子は、逮捕されたイエスの後を追います。もう一人の弟子の方は、大祭司の知り合いでした(15)。これは非常に興味深いことです。この弟子とは誰か? なぜこの弟子は大祭司と知り合うことが出来たのか? ・・
 興味深く、推論しようと思えば、いくらでも行うことの出来ることです。小説は行間を読む楽しさがあります。しかし、私たちが聖書を読む時、聖書が語らないことは私たちが救われるためには関わりのないことであり、私たちが知る必要がないことです。

Ⅱ.不意を突かれる危険
 この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていました。最初からもう一人の弟子の知り合いとして紹介され、一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ることも可能だったことでしょう。しかし最初、ペトロはそのようにはしなかったのです。躊躇・戸惑いがあったと思われます。主イエスの言葉(13:38)が、ペトロの脳裏にあったのかもしれません。大祭司の屋敷に入ることは、危険が伴うからです。
 しかしもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れたのです。彼はペトロに対する親切心から行動したのでしょう。しかしペトロにとっては、この誘いが罪の誘惑であったのです。ペトロは不意を突かれ、考える間もなく行動します。考える間もなく行動することは、今まで危険に対して構えていたことを止めて、頭が真っ白の状態で行動したことを意味します。
 私たちが日々生活していく中で様々な誘いの声をかけられます。中にはオレオレ詐欺のように故意に人を騙そうとする誘いもあります。この弟子のように、故意ではない場合もあります。いずれにしろ私たちは、一つの行動を起こす時、一度考えてから、決断して行動することが求められるのです。それは祈りを持って行う信仰的な決断です。そのために、私たちは日頃から御言葉に聞き続け、祈り続けることが求められるのです。御言葉の養いに与っていることにより、私たちは、突然に判断が求められることが起きても、信仰的な判断を下すことが出来るのです。

Ⅲ.油断のもたらす危険
 大祭司の屋敷の中庭に入ったペトロは、門番の女中から問いかけられます。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(17)。彼女にとっては当然の質問です。先に入ったもう一人の弟子は、主イエスの弟子であることを知っていたからです。
 しかしペトロにとっては、彼女から問いかけは想定外の出来事でした。つまり、ペトロは主イエスが語られたことを心に留めており、ローマの兵士もしくはユダヤ人から問いただされることを念頭に置いていたのです。ですからペトロが想定していた人たちが問いかけてきておれば、状況は違っていたことでしょう。しかし問いかけてきたのは門番の女中であり、ペトロにとっては想定外であり、油断していたのです。
 私たちは信仰の武具を身につけなければなりません(エフェソ6章)。日頃から備えておかなければなりません。しかし同時に、身構えておらず、油断している時に何が起きても、私たちは適切に判断し行動することが求められるのです。こうした油断している時にも、信仰的な判断をするために、私たちは御言葉を蓄え、信仰的に行動することが求められます。しかし同時に限界があります。私たちは、どのような時にも信仰的に行動できると過信してはなりません。むしろ、自らの弱さ、罪深さを確認し、主の御前に信仰を告白すると同時に、こうした罪の悔い改めを行うことが求められているのです。

Ⅳ.聖餐式の恵み
 私たちはこの後、主の晩餐の恵みに満たされます。主イエス・キリストが、私たちの神、救い主であると教会において告白したキリスト者は、誰もが与ることが出来ます。
 この時、躓いたペトロも、主イエスは聖餐の礼典に招いて下さいました(21:15)。 主イエスは、同じ言葉を3度繰り返されたのです。そして主はペトロを主の晩餐に与るばかりか、教会の指導者として、主はペトロをお立て下さったのです。罪を犯してしまっても赦して下さる主イエスがおられるからこそ、私たちは安心して日々、生活していくことが出来るのです。身構えずに済むのです。そしてどのような時にも、信仰的な判断をもって、生活していくことが出来るのです。
 罪の赦しと救いに感謝しつつ、聖餐に与り、今日から始まります一週の歩みを、救いの感謝を持ちつつ、主を証しする日々となりますように。


                                     (2012.2.5)

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