【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「引き返す勇気を持て!」  ヨハネによる福音書18章25~27節



ヨハネによる福音書18章25~27節

  25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。



Ⅰ.聖書はあなたに語りかける
 今日の御言葉にはペトロの躓きが語られています。この記事は、多くのキリスト者が我がことの如くに思い、ペトロに対すて親近感を持ちます。しかし、私たちが聖書を読む時、この記事のように自らの生活と重ねて読むことが出来れば、親しみやすいことでしょう。しかし、イスラエルは日本とは異なり、時代背景も違うため、理解できないことも多いかと思います。旧約聖書では特にそうでしょう。なぜこのような所を読むことが求められるのかと思う箇所もあるでしょう。
 聖書は神の言葉であり、場所・民族・時代を超えて、今、神の御前に立たされている私たちに対して、私たちが神による救いが必要であること、つまり私たちの罪の姿を明らかにし、神さまの恵みと救いを指し示し、その上で神さまが私たちに求められていること、私たちの祈り求めるべきこと、してはならないことを語ります。言い換えれば、聖書は、苦しみ、悲しみ、喜び、怒りを発する私たちに対して、神による救いを示しているのです。
 私たちが聖書を読む時、時には、自分には関係がないと思われるような罪が語られます。しかしここに人間の究極の罪があるのであり、私たち自身も同じ立場に位置していることを忘れてはならないのです。また、主の命令に対して、このようなことは守ることが出来ない、と思ってしまうことも語られています。この時にも、はじめからこのようなことは出来ないとあきらめるのではなく、主がなぜ、私たちにそのようなことを求められているのかを考えなければなりません。その上で、完全に守ることが出来ないけれども、自らの罪、欠け、弱さを受け入れつつ、主の命令に倣うように努力しなければならないのです。

Ⅱ.ペトロの躓き
 さて、今日与えられたペトロの躓きですが、自分もペトロのような失敗を犯してしまうと、笑いながら同調するだけでは全く意味がありません。
 この出来事は、四福音書に記されています。重要な出来事であるからです。しかしヨハネ福音書だけは、他の共観福音書とは異なり、この一連の出来事を二つに分けて記します。最初にペトロが主イエスを否定した時、非常に大きな壁があったのですが、とっさに嘘をつき、主イエスを知らないことを語ってしまったのです。しかし今日のテキストではどうか? ペトロは立って火にあたっていたのです。ペトロは裁判を受けている主イエスを眺めているユダヤ人の中に混じっていたのです。もう主イエスの弟子であることを隠して、自分はユダヤ人であることを語るようにです。
 しかし火にあたることは同時に、ペトロの姿が人々に露わになることも意味します。ペトロはユダヤ人たちと同じように立っていたのですが、エルサレムに住む人々からすれば、ガリラヤ出身のペトロは、明らかに田舎者でした。そして、主イエスと共にいることを知っている人にとっては、それが目立ったのです。ペトロは隠しているようであっても、人々には明らかなのです。
 同様に、私たちのどのような小さな出来事も、主なる神さまの御前に何一つ隠すことは出来ません。天においてすべてが記録されています。それが私たちの罪の姿です。
 ペトロは二度目、三度目と主イエスと共にいたことを打ち消します。初めはおとなしく「私は違う」と語ったのでしたが、二度目はきっぱりと打ち消して「違う」と語り、三度目は、他の共観福音書の記述では、呪いの言葉さえ口にしながら(マルコ14:71)、主イエスを強く打ち消すのです。最初は非常に意識するのです。だからこそ、それを超えないようにと歯止めがかかるのです。しかし次第に罪が習慣的になり、最後は良心が眠ってしまうが如くに麻痺して、神を軽んじ、罪を犯すことに対して何の抵抗もなくなるのです。むしろ一つの嘘を隠すように、嘘を積み重ね、頑固になっていくのです。

Ⅲ.神は私たちを救いの場に連れ戻して下さる
 ここに私たちの持っている人間の罪の怖さがあるのです。ペトロの場合「嘘」だから、自分にもあり得ると思うのですが、それが人殺しとなれば、自分は絶対に行わないと語るでしょう。戦争のような状況になれば、人を殺す者となるのです。
 私たちは、一つの罪を犯した時、必ず主の御前に立ち、自らの罪を悔い改め、罪に対する思いをリセットしなければなりません。罪という大きな壁にしておかなければなりません。罪の刑罰は死です。だからこそ私たちは、常に引き返す勇気を持つことが必要です。一つの罪を犯すことにより、たがが外れた如く、罪の上塗りをするからです。
 ペトロは、三度目に主イエスを否定した時、鶏が鳴いた声を聞き、自らの罪を知ります。この時ペトロにとっては、鶏の声が雷鳴の如くに響いたことでしょう。しかしペトロが立ち返ることが出来たのは、主イエスの言葉と祈りの結果です(ルカ22:31-32)。
 私たちは、なかなか自らの罪を受け入れ、引き返すことが出来ないのです。分かっていても、これ位は大丈夫だと自らたがを緩めてしまうのです。だからこそ、主は、主の日毎に、私たちを日々の生活から離れ、主の御前に立つように、礼拝に招いて下さるのです。また毎日、家庭・個人で、主の御言葉に向き合うことが求められているのです。

                                     (2012.3.4)

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