【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「手を汚さずに逃げる者」  ヨハネによる福音書18章28~32節



ヨハネによる福音書18章28~32節

  28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。




序.
 今日、3月11日を迎えました。大きく地が揺り動き、大きな波が生活をなぎ倒していきました。そして放射能という目に見えない恐怖におびえる日々が今も続いています。一年前の今日を境に、日本社会は大きく変化を遂げました。そして今、人々は、何に価値を置くのか、非常に揺り動いているのです。

Ⅰ.ユダヤ人
 さて、逮捕された主イエスは、ローマの総督ポンティオ・ピラトの所に連れて行かれました。「人々」・「彼ら」とは、ユダヤ人である律法学者やファリサイ派の人々であり、ユダヤの最高法院を構成していた人々です。
 ヨハネ福音書は、大祭司の屋敷において行われた主イエスの取り調べに関して、ほとんど何も語りません。彼らは、なぜ主イエスをピラトの下に連れてきたのか。彼らは、主イエスを死刑にすることを願っていたのです。それはピラトが29「どういう罪でこの男を訴えるのか」と語ったことに対して、彼らは30「この男が悪いことをしていなかったらあなたに引き渡しはしなかったでしょう」と語るのです(参照:マタイ26:65-66)。彼らの恨みの根源は、主イエスによって彼ら自身の生き方が否定されたからです。主イエスが奇跡を行い、人を引きつける話しをするだけであれば、彼らも主イエスを殺そうと思わなかったことでしょう。しかし主イエスは彼らの信仰、彼らの生き方そのものを否定したのです。それは、彼らが律法に従って生きていると語りながらも、律法の与えられた意味をはき違え、また律法を変質していたからです。十戒で代表される律法は、十戒の序文で明らかなように、イスラエルの救いは神が一方的にイスラエルを捉え救って下さったことによるのであり、救われた感謝と喜びをもって、神の示す道を歩むものとして、また罪に陥らないように律法が与えられたのです。しかし彼らは、律法を守ることにより救われると解釈し、また自らの正しさを主張するために律法を曲げ、また返す刀で人々を裁いていたのです。

Ⅱ.ユダヤ人たちの過ち
 そうした人々が、主イエスを殺そうと、ピラトの所に連れてきたのです。彼らにとって、自分たちは正しいのであり、悪いのはイエスです。彼らは自分たちの正しさを主張するために、律法を守っていることを人々に示します。この時も、異邦人の所に行くことで汚れるとの律法を盾に、ローマの総督ピラトの屋敷に入ろうとしなかったのです。自分たちは正しい者であり、主の過越の食事を行うことが大切であるとの主張です。確かに、異邦人の所に行くことによって汚れることは、ペトロも語っています(使徒10:28)。しかし彼らは、自分たちを否定する主イエスが憎く、主イエスを殺すことにのみ心が奪われています。そのため、小さな律法を守ろうと一生懸命なのですが、救い主を理解できないこと、さらに人を殺すが大きな罪であることを理解できなかったのです。つまり、主イエスがお語りになられている救いとは何か、信仰とは何かを、彼らは理解できなかったのです。主イエスは、彼らを否定したのではなく、誤りを認め、修正し、悔い改めて主に立ち返ることを求めておられたのですが、それを理解することが出来なかったのです。
彼らの状況は、主イエスの次の言葉によって的確に語られているのです(マタイ7:3~5)。
 彼らは律法の一つひとつに忠実であると言えば聞こえは良いですが、救いとは何かという大前提を無視して、小さな律法に忠実であろうとし、本末転倒です。また彼らは、イエスを殺すという大きな出来事に関わるにも関わらず、自分たちは汚れるとの理由で、また自分たちには死刑にする権限がないとの理由で、すべてをピラトに丸投げするのです。つまり、根本的な信仰的な生き方が間違っているばかりか、自分たちで解決しなければならない問題すらも、他人に委ねてしまい、他人事にしてしまっているのです。これが罪です。
 私たちは今生きる目的は何かを取り戻すことです。神さまを信じるとは何かという大前提を取り戻すことです。律法によって自分たちの正しさを主張するのではなく、自然を支配し、命を支配しておられる主の御前に私たちが生きていることを確認し、私たち自身の行い・言葉・心が、主の御前に正しいことか吟味することが求められています。自らの弱さ、罪を受け入れなければなりません。その上で、主がお示し下さる救いの恵みを知ることです。律法を守り、良き行いによって救われるのではないのです。私たちは主の一方的な救いに入れられており、信じることによって救われるのです。主が約束して下さっていた救い主イエス・キリストはすでに与えられたのです。そして、私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と死からの復活をとおしてすでに成し遂げられたのです。

Ⅲ.ピラト
 一方、ローマの総督ピラトはどうか?彼はこの件に関わりたくないのです(31、参照:マタイ27:18-19)。主イエスの名声について、つまり奇跡を行い、病人を癒やされたこと、ラザロを死から甦らせたことなどは、彼の耳にも入っていたはずです。そのためピラトは、主イエスに対して関わりたくないばかりか、罪を認めることが出来なかったのであり、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカ23:4)とすら語るのです。
 ピラトは、主イエスに対して、死刑にする権限を持っている唯一の人間であり、同時に、主イエスに対して、無罪を宣言する権威も持っていました。にもかかわらず、ピラトは、責任回避をしつつ(ルカ27:24)、主イエスを死刑に処したのです。ピラトは、神さまを畏れることなく、ユダヤ人の目を恐れたのです。ピラトは、ユダヤ人たちを統治することが求められていたのです。そのため、ユダヤ人の求めに反して主イエスを無罪とすることによって、自らの立場を失うことを恐れたのです。しかし主イエスは私たちにお教え下さっています。「人々を恐れてはならない。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:26,28)。
 主イエスを十字架に架けたことの責任は、ユダヤ人とピラトに帰せられます。しかし、他人の罪は指摘しつつ、自らの過ちを顧みない姿、自らの責任を逃れようとする姿、そして生きて働く主を顧みることなく、目の前の出来事を追い求める姿、それはまさに私たちに問いかけられている罪です。こうした私たちの行いこそが、キリストを十字架に架けたのです。
 私たちは、今、生きるとは何かを問いかけなければなりません。主は私たちに今日も命をお与え下さっているのです。そしてそのお方が、私たちを救いに招き入れて下さっているのです。私たちが生きるとは、命をお与え下さっている主なる神さまを顧み、その栄光を讃えることです。命が与えられ、救われていることを喜んで生きることです。
 3月11日、今年も、主なる神さまは、ここに集う一人ひとりに命をお与え下さっている恵みをお覚えいただきたいと思います。


                                     (2012.3.11)

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