【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「イエスと共にいる」  ヨハネによる福音書19章25節~27節



ヨハネによる福音書19章25~27節

  19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。




序.
 神さまを信じるとは、常に、インマヌエル「神我と共にあり」、コーラムデェオ「神の御前に」生きることです。だからこそ「有神論的人生観世界観に生きる」(創立宣言)のであり、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)と語られるのです。しかし、神さまと共にある、神さまの御前に生きるとは、どういうことなのか?

Ⅰ.信仰を保ち続ける姉妹たち
 十字架に架けられている主イエスの前に4人の婦人たちが立っていました。①イエスの母マリア:彼女は聖母ではなく、一人の姉妹です(参照:2:4、マタイ12:48-50)。②母の姉妹、③クロパの妻マリア、④マグダラのマリア:「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2)彼女たちは、捕らえられることを恐れず、主イエスの御前に立ち続けたのです。
 ヨハネは、一方において滅び行く兵士たちのことを記し、一方で主イエスの御前に立ち続ける婦人たちについて語ります。彼女たちは、常に救い主イエス・キリストを意識し続け、主の御前に立ち続けることを行っていたのです。私たちは、どれだけ主イエス・キリストを意識しながら、一週間の歩みを歩んでいるか? もしそれが「日曜日だけ」という、一週間の内六日間はどっぷりと世に染まっている歩みを行っているのであれば、その間は兵士たちと変わりなくなります。日々の生活・働き・学び・楽しんでいる間にあっても、救い主を覚えつ、救いに感謝しつつ、生活することが求められているのです。常に救い主を覚え、主イエスの御前に立ち続け信仰を貫くのです。主イエスにこそ救いがあり、罪の赦しと永遠の生命の約束があることがはっきりと示されているからです。主イエス・キリストの十字架の御業は、私たちを永遠の死から救い出し、罪の刑罰から救い出し、天国における永遠の生命の喜びに満たして下さるのです。だからこそ私たちは、今、主の御前に立って、私たちが常に主の御前に立ち続け、主を証ししつつ、主の求められる歩みを行うことが出来るように、祈り、願い続けるのです。

Ⅱ.主イエスの牧会
 この時、主イエスはどのような思いをもっておられたのでしょうか。①滅び行く人たちに対して語られています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主イエスは、誰一人として、滅びの道を歩んでほしくないのです。最後まで、悔い改め、信じることを求めておられます。
 ②また主イエスと共に十字架に架けられつつ、自らの罪を悔い改め、主イエスを救い主として告白した囚人に対しては、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)とお語りくださいました。神さまを信じ、救いの道を歩むとは、過去のことを問われることはありません。罪を犯したこと、主を信じていなかったことに対して、自らの罪を受け入れ、罪の悔い改めをし、その上で主イエス・キリストによる救いを受け入れ、信仰告白をすることを求めているのです。そして、信仰の道を歩む者に対して、主は救いの道を、お示し下さるのです。
 ③主イエスはキリスト者として求められることをヨハネ福音書で語られます。主イエスの母に対する愛が示されます(第五戒、参照:Ⅰテモテ5:1-3)。主イエスは、御自身の十字架により罪赦され、神の民として生きようとする者たちに対して、「苦しいけれどもがんばって生きよ!」とエールを送られるのではありません。神の民キリスト者であっても、地上の生涯の中にあって、自分の力で生きることなど出来ません。信仰を貫くことなど出来ません。現代のように保険も年金もない時代にあって、やもめの老婦人が一人で暮らしていくことなど困難なことでした。これからマリアの生活を、愛弟子であるヨハネに委ねることにより、マリアがこの世においても、希望をもって生きることが出来るように、主イエスはお語りくださったのです。それと同時に、愛する弟子であるヨハネに対して、主にある兄弟姉妹として生きる時に、遜り、仕えることによる、主の喜びがあることを示されるのです。

Ⅲ.神の民として生きる
 私たちは、この後、聖餐の礼典に与ります。聖餐に与るということは、聖餐に与る私たちがキリストの十字架により罪が赦され、神の民とされていることを確認するのであり、まさにキリストとの交わりに生き、聖徒の交わりに生きることであります。
 そして私たちが、キリスト者として主の救いの道を歩むとは、神さまを礼拝している時も、日々の生活の場にあっても、常に神の恵みの下、神との霊的な豊かな交わりがあり、神を証しする者とされているのです。ユダヤ人たちや兵士たちのように神なき日常となってはなりません。
 そしてキリスト者は、常に神と共にあることを覚える時、キリスト者相互の交わりに生きることが許されるのです。それは、苦しむ者、助けを必要とする者に対して助け合うことを通して、神による救いの喜びを分かち合うことができるからであり、ここに執事的な奉仕、ディアコニアがあるのです。

                                     (2012.5.6)

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