【クリスマスの説教】  「御子の誕生を喜ぶ」  辻 幸宏牧師



  ルカによる福音書1章46〜56節(新共同訳聖書)

1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、
   わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも
   目を留めてくださったからです。
   今から後、いつの世の人も
   わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、
   わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、
   主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、
   思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、
   身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、
   富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、
   憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
   アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。



 クリスマスおめでとうございます。しかし私たちはクリスマスをなぜお祝いするのでしょうか?今日は、このクリスマスを最初に喜び、主なる神様を讃美した女性、イエス・キリストの母マリヤの賛歌を共に読み進んでいきましょう。
 イエスの母マリアは、ヨセフとの結婚の約束をしていました。おそらく当時13歳位であったでしょう。ナザレという小さな村に住んでいました。2〜300名程度の村であったでしょう。ユダヤの都エルサレムではなく、田舎とされていたガリラヤにあっても奥まった小さな村にナザレに、神の母と呼ばれるようになるマリアはいたのです。
 その名もない一人の娘に、主の使い・天使が現れ、1:28「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアは戸惑い、考え込みます(29)。しかし天使は続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(30-37)
 マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38)と答えます。突然の言葉に対して、マリア自身、疑問もあったことでしょうが、彼女は天使の言葉を受け入れます。信仰とは、常識で考えれば受け入れられないようなことであっても、主の御霊が働いて下さることにより、聖霊によって受け入れるものとされるのです。
 そしてマリアはエリザベトに会いに行き(36)、天使の言葉が真実であることを確信し、信仰が強められ、賛歌を讃美します。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」魂とは、いのちを意味する言葉で、魂と霊によってつまり体全体で、主の栄光を崇め、喜びます。ここには主に対する疑いが全くありません。

 「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(48)。はしためとは、女奴隷のことです。奴隷は完全服従が求められます。しかし、当時のイスラエルの人々が求めていた救い主は、奴隷からの解放者です。旧約の時代、イスラエルはエジプトにおける奴隷の身でしたが、主はモーセをお立て下さりイスラエルを救い出して下さいました。ですからマリアが、自由を求めることなく、「主のはしためである」と告白するのは、全く神様から与えられた恵みによって語っていることなのです。
 信仰とは、主の奴隷となることです。クリスチャンになるとは、主の奴隷となることを喜ぶのです。今の時代、人に拘束されることが、極端に嫌われます。ですから「主の奴隷となる」と語れば、人々からますます嫌われることでしょう。しかし、皆さんが「自由になる」とは何から自由になるのかを考えねばなりません。人に干渉されることなく、自由に時間を用いて、自由にものを考え、自由にことを行うことが出来る。ここにある自由により、一時的な安らぎと満足を得るかも知れません。しかし、将来迎える肉体の死から自由にされることはないのです。今は執行猶予が与えられていますが、肉体の死と共に永遠の刑罰が待ち受けています。そういう意味で、死の奴隷とされていることからは、決して自由にされていないのです。しかし主の奴隷となることは、この死の奴隷から自由にされるのです。マリヤによってお生まれになったイエス・キリストが、十字架の死を遂げた後、三日目に甦りになられ、死に打ち勝たれました。同様に主を信じ、主の奴隷とされた者は、主によって復活の体が与えられ、永遠の生命による永遠の自由を手にすることが出来るのです。こうした意味で、マリヤは主のはしためとされたことを喜び称えているのです。

 マリアは続けて告白します。「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」(48)。マリアは、神の母として、特にカトリック教会において崇められています。私たちの信仰の立場とすれば、マリアもまた私たちと同じ罪人であり、彼女が何らかの形で清い人であったとかいうことはありません。ただ、主からの特別な祝福に満たされたということでは、間違いのないことです。
 ところで、マリアが本当にすぐに幸いな者となったかと言えば、そうではありません。彼女はまだ正式に結婚をしていませんでした。結婚前に性交渉を行うことは、大きな罪で、姦淫の罪で死刑に処せられます。だからこそ、このことを知った許嫁のヨセフは、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心します(マタイ1:19)。イエス様がお生まれになられるまで、いやそれ以後もしばらくは、結婚前に子供が出来たことを隠して、生活しなければならなかったのです。そればかりではなく、救い主が誕生したということがヘロデ王の耳に入り、幼子を皆殺しにする勅令が発令されることとなります。その間、ヨセフとマリア、幼子のイエス様は、エジプトに避難しなければならなくなります(マタイ2:16-23)。また、主イエスが犯罪者として十字架に架けられる時、マリアは息子の死を目の当たりにしなければなりませんでした。
 ですから、マリアに取りましては、非常なる艱難が待っていたのです。しかしマリアは自らの体に与えられた御子の誕生を、主からの祝福として、そして全てが主によってなされることだからこそ、すべてが守られると信じていたのです。私たちも信仰が与えられることにより、今後予想される困難・艱難に対しても、主の御手により、守られ、助けられ、乗り越えることが出来、全てを主に委ねて信じることが出来るのです。恐怖があるかも知れないが、自分の力で何とすることはもう必要ないのです。主に委ねる。これが信仰です。

 マリアは続けて告白します。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(51-53)
 主は田舎の小さな村の名のない女の子を、「神の母」としての称号をお与え下さいました。主は、全知全能であり、私たち全て、全世界の人々のことをご存じであられます。それは私たちの行い・言葉・そして心の全てにまで及びます。そして全てを支配しておられます。そして私たちの苦しみも悲しみも全てをご存じであられます。権力を持っている者、経済的に成功を収めた者、有名な人だからといって、優遇されることはありません。主が見ておられるのは、主がお語り下さった時、その御言葉に聞き、御言葉を受け入れ、御言葉に従おうとする者です。
 しかし、権力を握る者はすべての者を従わせようと考えています。つまり自らを主人にして、人々を奴隷化しようとするのです。人々の上に立ち、人々を隷属化しようとする者が、主の奴隷として仕えることは、非常に難しいことなのです。マリアを通して語られている権力者に対する裁きは、野望に満ちた権力者に対する裁きが語られているのです。
 だからこそ、主によって召され、キリストを主として信じる者は、権力者に隷属し、権力者の言葉に翻弄されてはなりません。キリスト者は、主の奴隷とされた者であり、全ての支配者である主の御声に聞き従うことが求められるのです。つまりマリアが語る「イスラエル」(54)とは、政治的な独立を求めるイスラエルではなく、主による霊的な救いを信じる霊的なイスラエルであり、つまり主の奴隷とされたキリスト者を語るのです。主の奴隷とされ、キリスト者として生きることは、喜びと祝福に満たされた歩みとなります。そして、クリスマスをお祝いすることは、キリストの奴隷とされた私たちが、真実の自由をお与え下さるために死に打ち勝ち、永遠の生命をお与え下さったキリストの御業に感謝を持って受け入れることなのです。
 主がマリアによってお与え下さった救い主イエス・キリストの御業に心から感謝しつつ、主の奴隷として、死の奴隷から解放された喜びを持って、歩み続けていきましょう。

                                              (2004.12.19)



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