【礼拝説教】  「聖書は何を語るのか」  辻 幸宏牧師



  使徒言行録17章10〜15節 (新共同訳聖書)

17:10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。
    二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。
17:11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に
    熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
17:12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも
    少なからず信仰に入った。
17:13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の
    言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を
    扇動し騒がせた。
17:14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、
    シラスとテモテはベレアに残った。
17:15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ
    早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って
    行った。


 今日は、新年礼拝として創世記から離れて説教をいたします。今年の教会の標語と聖句は下記の通りです。2005年度標語「神の言葉を礎とし、教会をたてる」  2005年度聖句「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイによる福音書7章24節)昨年の標語は、「神の栄光を称える歩み」−御言葉と祈りに仕える−(ローマ11:36b)は、ウェストミンスター小教理問1に即して定めましたが、今年は続く問2「旧新両約の聖書にある神の言葉は、私たちがどうすれば神の栄光をあらわし、神を喜ぶことが出来るかを示すための、ただ一つの規準である。」を念頭にしつつ、伝道所から教会設立を目指しつつあゆむ教会であることを覚えています。
 さて、今日私たちに与えられた御言葉は、使徒17:10〜15でパウロが第2回宣教旅行を行っている最中、ペレアにおける箇所です。1-9節におけるテサロニケでの出来事を理解することでペレアの出来事の理解が深まります。パウロはこの時初めてテサロニケに行き、3回の安息日にユダヤ教会堂にて説教を行いました。そこでパウロが語ったことが3〜4節で紹介されています。それでテサロニケ教会の基礎が築かれたのです。わずか3週でと、人々が信じ、さらに教会の基礎が築かれたことは、私たちからすれば驚くべきことですが、彼らはパウロ同様、ユダヤ教の礼拝において、旧約聖書の御言葉を聴き続けていたのです。旧約聖書において語られていた救い主(メシア)が、十字架の死と復活を遂げられた主イエス・キリストであることが示され、彼らは信じたのです。そしてヤソンは、有力な信徒となったのです。しかしその中でも主イエスを信じなかったユダヤ人たちは多くあり、彼らがヤソンの家を襲います。
 そしてパウロとシラスは、ベレアに派遣されます(10:「送り出された」のではない)。主の御言葉が語られる時、迫害もあります。その時受け入れられない町から次の町に行くことも必要です(マタイ10:22-23)。つまりキリスト教会とは、どれだけ迫害されようが、どれだけ苦しみの中にあっても、宣教を続け、また宣教する者を宣教の場に遣わすのです。だからこそ、パウロたちはベレアに到着すると、すぐにユダヤ教の会堂に行き、説教を行います。逃れたのであれば、迫害がある可能性のあるユダヤ教の会堂には行きません。
 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(11)。ベレアの人たちは「素直」であったから信じたのではなく「身分の高い」人たちであり、誤訳です。そもそも人の心は頑なです。神様を信じる心など持っていません。主の御言葉が説教されても、そこに主の御霊である聖霊の働きがなければ、誰も神様を信じることなど出来ません。また、テサロニケの人々もパウロの言葉を受け入れ、主を信じました。主のしもべとして、良き働きをしています(テサロニケ一1:3)。つまりベレアの人たちとテサロニケの人たちを比較出来るものではありません。比較することが出来るのは、見た目の違いです。「身分の高い人たち」だからこそ、彼らは聖書を読むことにおいても教養があり、理解する能力も優れ、信じるためにより必要な賜物が与えられていたのです。
 彼らは、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていました(11)。主の御言葉が説教されたら、それを私たちは、主の御言葉そのものである聖書によって確認しなければなりません。もちろん、語られた説教に聖霊の働きが無ければ、たとえ語られたことが真実であったとしても、それを受け入れることが出来ないのです。しかし、いきなり他の町からやってきたパウロの話しに、心うたれ、鵜呑みにしてはならないのです。このことは牧師が語る説教においても同様です。牧師はもちろん準備して、御言葉の解き証しを行います。しかし全てが正しく、真理が語られているか、それを吟味することが、聞く者にも問われているのです。

 そうしなければ、もし牧師が聖書の言葉を用いつつ、極端な話し「自分こそ再臨のキリストだ」と語られば、それを信じるのですか? そうはしないのです。自らで聖書を読み、語られた説教が真理であるかを確認し、吟味することが求められます。そのことにより、信仰が強められ、また教会の働きに仕えることが出来る者とされていくのです。

 〔参照:ウェストミンスター信仰告白20:2〕 キリスト者の自由・良心の自由について
 神のみが良心の主であり、神は、何事においてもみ言葉に反し、あるいは、信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである。
 〔ウ大教理157〕 神のみ言葉は、どのように読まれなければならないか。
答 聖書は、高い敬けんな評価をもって、聖書こそまさしく神のみ言葉であり、神のみがわたしたちに理解させることができるとの確信をもって、聖書に啓示された神のみ心を知り・信じ・服従したいという願いをもって、勤勉に、聖書の内容や範囲に注意して、めい想と適用と自己否定と祈りをもって、読まれなければならない。
 〔ウ大教理160〕 み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか。
答 み言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、聞いた説教を聖書によって調べること、信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、それについてめい想し、語り合うこと、心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。(以上、改革派教会訳使用)

 だからこそ、私たちが、信仰を貫き、教会を作ろうとする時、「私はわからないから」と言ったことを語るのではなく、一人一人が個人的に、家庭において、そして教会として、共に聖書を読み、理解し、主のお語り下さる御言葉によって生かされていくことが求められていきます。その一助となるのが、昨年から始めました日々の聖書通読です。聖書全体を通読し、聖書全体で何を語ろうとしているのかを確認して頂きたいのです。
 そして教会に集う一人一人が、御言葉によって生かされていくことにより、教会は主の御霊の宿る躍動ある教会となり、新たなる宣教へと促されていくのです。だからこそ、ベレアの教会は、パウロとシラスを新たにアテネへ派遣するのです。宣教は、この教会堂における礼拝を中心になされていきますが、個人礼拝、家庭礼拝、そして家庭集会が、充実していくことが求められます。そして、礼拝への備えと聞いた説教を吟味することにより、各々の信仰が成長し、教会を立てるための礎が備えられていくのです。つまり、教会をたてるとは、ただ移転したら、新しい人たちが集まるだろうという安易な気持ちで行うのではなく、私たち自身も、主によって信仰が強められ、教会に必要な賜物、つまり長老・執事として備えられたものとされていく準備が整えられていかなければならないのです。

                                              (2005.1.2)
COPYRIGHT(C) 2005 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る