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【平和礼拝説教】  「信仰と政治参加」  辻 幸宏牧師 
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 ペトロの手紙一2章11〜17節

2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、
   魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわり
   してはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、
   服従しなさい。
2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として
   行動しなさい。
2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。


 ダニエル書3章8〜18節(1〜30節)
3:8 さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、
3:9 ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。
3:10 御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が
   聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。
3:11 そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。
3:12 バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの
   三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を
   拝もうとしません。」
3:13 これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、
   この三人は王の前に引き出された。
3:14 王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの
   建てた金の像を拝まないというのは本当か。
3:15 今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、
   わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に
   投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
3:16 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、
   お答えする必要はございません。
3:17 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、
   必ず救ってくださいます。
3:18 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を
   拝むことも、決していたしません。」


 今年で60年目を迎えた広島・長崎の原爆、敗戦の日を覚え、主が平和についてどの様に語っておられるかを御言葉から聞き、今の私たちがどの様に信仰を貫き、証ししていくことが出来るかを考えてみたいと思います。
 キリスト教会の歩みは、キリストの十字架・死と復活・昇天の後、聖霊が下り、約2000年となります。その間、教会は常に、国家権力と世(世の中)との関わりの中、教会とは何かが問われています。ペトロの手紙一においては、2:11-12で異教社会におけるキリスト者について、そして2:13-17において国家に対するキリスト者について記されています。
 現在、私たちはこの日本に住み、キリスト者がわずか1%にも満たない社会にあり、非常にキリスト者として証ししていく事の難しさを痛感しております。しかし、新約の時代、初代教会においては常に迫害があり、どこにあってもキリスト者は少数者だったのです。神様を知らない多くの人たちとの間に、少数のキリスト者がいたのです。
 肉の欲を避けること(11)、狭い意味での性欲のみならず、金銭欲、物欲、権力欲と言った世にある様々な欲望の全てが含まれています。これらの欲望は、魂に戦いを挑むものです。つまりお金を稼ぐこと・権力を持つとことが、主によって与えられた賜物であり、このことを通して、世に対して影響力を持ち、主を証しするために用い、主の民、さらには全ての人たちの益することとして行われていくのであれば、問題はないでしょう。しかし、そこに自らの欲望が混入することにより、地上での生活が全てとなり、信仰を捨てるような行為に走ってはならないのです(参照:使徒5:1-11「アナニアとサフィラ」)。
 罪を避けるのみならず、善き業を求めているのです。これは救いの感謝と喜びがなければ出来ません。教会は、信仰告白・教会政治と共に善き業により教会形成することが求められているのです(創立宣言)。そのために、積極的に御言葉に示されている律法(十戒)を用いていくことが求められているのです(律法の第三用法)。
 一方国家との関係について、教会でも「教会は国家権力に関して、関わるべきではない」と語られてきました。しかし聖書はどの様に語っているでしょうか。国家権力に対して、無関心・関わってはならないとは語りません(13-14)。主は国家権力に対して基本的に従いなさいと語ります。つまり主は全てを支配しておられれ、霊的支配としての教会だけでなく、世的支配としての国家をも支配しておられます。従って私たちは、主がお立て下さった国家権力者に従うことが求められます。
 しかしこれは国の為政者が、主の御言葉、律法に従った政治を行っている限りにおいてです。主の御前に悪事を行っていることまで黙っている必要はありません。悪事は覆い隠されてはならないのです(16)。国家といっても、それを司るのは人です。そしてその人も、罪に満ちているのです。主の御前に誤ったことも行います。そうした行為にまで、キリスト者は従ってはならないのです。ダニエル書において、三人のユダヤ人(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ)は、王の命令でも、金の像にひれ伏して拝むことをしませんでした。王は彼らを火の中に投げ入れようとしますが、主は彼らをお守り下さったのです。
 日本の裁判において、国家の責任が放棄される理由として「国家無答責」と語られます。しかし旧約聖書が明らかにするように、主は国家とその為政者の罪を暴かれ、裁かれます。つまりキリスト者は、主に逆らう行為に対し、「否」を語り、従ってはならないのです。
 戦前・戦中の日本の教会は、国家が神社参拝を強制すること、他国の侵略に、協力しました。これは大きな罪です。悔い改めが求められています。同じ罪を繰り返してはなりません。現在の日本は、戦前、国家が暴走していった状況に非常によく似ています。教会は声を出せない状態に追い込まれようとしています。自分一人で信仰を貫くことは困難です。しかし信仰の戦いは、主の戦いです。主を信じ、主に委ねて歩むことが出来ることにより、ダニエル書でユダヤ人たちが信仰を貫き通すことが出来たように、私たちも主への信仰を貫き通すことが出来るものとされていきます。

                                                (2005.8.7)
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